学校での部活を取り巻く環境が変化し、部員数減少も課題と言われる現在の日本社会。それでも、さまざま部活動の楽しさや面白さは、今も昔も変わらない。
この連載では、学生時代に部活に打ち込んだトップアスリートや著名人に、部活の思い出、部活を通して得たこと、そして、今に生きていることを聞く――。部活やろうぜ!
連載「部活やろうぜ!」
【サッカー】乾貴士インタビュー 前編(全3回)
【厳しい部活だったらやめていたかも】
高校サッカー部員の最大の目標。それは年末年始に行なわれる『全国高校サッカー選手権大会』だ。通称"センシュケン"は、多くの部活生の夢や目標であり続けている。
今年度で104回目を迎えるその高校サッカー選手権歴代優勝校のなかで、屈指のインパクトを残したのが、2005年度(第84回大会)で優勝した滋賀県立野洲高校だ。
多彩なテクニックとコンビネーションを融合させた攻撃サッカーを掲げ、決勝戦では名門・鹿児島実業高校を延長戦の末に破って優勝。滋賀県の公立高校がジャイアントキリングを成し遂げた。
決勝戦のスタメンのなかで、のちに6名がプロになった。そのなかで2年生ながら、攻撃のキーマンとして活躍したのが乾貴士(現・清水エスパルス)だった。左サイドを主戦場とするウインガーとして、持ち味の高速ドリブルで相手守備陣を切り裂き、チャンスを量産した。
そんな乾だが、高校進学を考えるにあたって、野洲高が第一志望ではなかった。静岡県の名門に心惹かれていたのである。
「自分のなかでは静岡の高校も候補に入っていて、ジュニアユース時代の監督の岩谷(篤人)さんに『行きたい』って言っていたんですよ。
順平くんとは、乾の1学年上の楠神順平のことだ。乾が子どもの頃から憧れるドリブラーで、野洲高卒業後は同志社大学を経て、川崎フロンターレに加入。その後、セレッソ大阪やサガン鳥栖などを経て、2024年に現役を引退している。
紆余曲折を経て、最終的にふたりとも地元の野洲高を選んだ。もし静岡に行っていたら? その問いに、乾は少し考えてから答えた。
「どうなっていたんですかね。本当にわかんないですね。想像つかないです」
そして、こう続ける。
「耐えれてたんかな? とも思いますけどね。厳しい高校サッカーの感じに。朝練とか先輩後輩の関係とか、そういうので嫌になって、やめてたんじゃないかなって」
【1個上の先輩たちについていき野洲高へ】
乾が野洲高を選んだ理由。それは何より、先輩たちの存在だった。
「付き合いが長い人たちが多かったんで。
金本竜市、平原研。全国優勝時の中心選手だ。金本はキャプテンを務め、長短自在のパスで攻撃をコントロール。平原は圧倒的なテクニックとアイデアで野洲の攻撃を彩った、背番号10である。
「順平くんもそうですけど、その人らが中心でやってて。僕だけ小学校からの仲やから、ケンとかニッチョ(金本のあだ名)とか、先輩やのに呼び捨てにしていたぐらいですから(笑)」
後輩たちがみんな「さんづけ」や「君づけ」で先輩を呼ぶなか、乾だけは「ケン」「ニッチョ」と呼び捨て。それが許される関係性だった。
さらに山本佳司監督、岩谷篤人コーチは、高校サッカーの旧態依然とした指導とは一線を画す指導者。自由な雰囲気が選手たちの個性とマッチし、ぐんぐんと力をつけていった。
「(中学時代の恩師)岩谷さんが、僕の1個上の人らが入学すると同時に、野洲高のコーチになったんです。1個上はケンやニッチョ、順平くんとかがいて、中学時代は全国大会に行けそうなぐらい強かったんですよ」
滋賀県のクラブチームであるセゾンFCに、乾たちは小学生の頃から所属していた。中学もそのままセゾンに上がり、青木孝太(野洲高卒業後、ジェフユナイテッド千葉に加入)や楠神順平らが加わった。
のちに野洲高で全国優勝することになるメンバーが揃い、岩谷監督のもとで「相手の逆をとる」「全員で同じイメージを描く」をコンセプトに、攻撃的なサッカーを展開していた。しかし予選で京都サンガF.C. U-15に敗れ、全国出場の夢は叶わなかった。
「その試合の後、1個上の人らが『俺らはみんな野洲高に行くからついてこい。そこで全国に行こう!』みたいな話になって。それについていったって感じです」
先輩たちのあとを追うように、乾も野洲高へ。Aチームに絡み始めたのは、高校2年生の春休みが終わった頃だった。当時、岩谷コーチに言われて、いまでも忘れられない言葉がある。
「岩谷さんにずっと『使われる側やぞ、お前は』って言われてたんで。僕はずっとそっちのタイプやと思ってやってましたね」
味方からパスを受けてチャンスを作り、ゴールを決める。それが乾の役割だった。
「プロになって年齢を重ねて、経験していくなかで変わってきましたけど、基本的にはずっと使われる側でした。いいパサーがいて、動き出しに合わせてパスをもらうとか、動き出しでフリーになって、そこにパスを出してもらうとか」
使われる側からすると、野洲高の環境は最高だった。
「優勝メンバーからは、ほんまにいいパスが出てくる。最高でしたよ。ケンからもニッチョからも来るし。いろんな人から来るので、本当に楽しかったですね」
【高校サッカー史上、もっとも美しいゴール】
チームメイトとは、小中時代からボールを介してコミュニケーションを取り続けてきた。岩谷コーチが常に言っていた「みんなで同じイメージを描く」こと。それが野洲スタイルの根幹だった。
「それは小さい頃からずーっと言われてましたね。本当に大事なことだと思います」

「あそこまで行ったら、大体いつもヒールしてるんで」
ヒールパス。乾の得意技だった。仲間たちは阿吽の呼吸で動き出していた。
「わかってるやろなと思ってましたよ。ケンもいてくれてるやろなって感じでした」
乾がヒールでボールを落とす。平原がそれを受け取り、右サイドの中川真吾へパス。中川のクロスに、瀧川陽が飛び込んでゴール。全員でピッチというキャンバスに同じ絵を描いた。「高校サッカー史上、もっとも美しいゴール」と語り継がれることになる得点が生まれた。
「なかなかね、あんなんが決勝で、延長で。そういうのもよかったですよね。
心なしか、乾の口調が熱を帯びる。
「あのゴールが1回戦やったら、こんなに騒がれてはなかったと思うんですよ。決勝であのゴールを決めて優勝までしてっていうので、ここまでみんなの記憶に残ってるのかなって」
しかし不思議なことに、当時の仲間たちと集まっても、あのゴールの話はほとんど出ないという。
乾は「あのゴールの話は出ないっすね」と、さらりと言う。では、何の話をするのか。
「いやほんと、しょうもない話しかしないっすよ。ほんまにふざけた話ばっかり。ボケたりいじったりツッコんだり。そんなんばっかなんで」
関西人特有のノリ。冗談を言い合い、ツッコミを入れ合う。
「みんなで集まると『あの時マジでふざけてよな、試合中やのに』みたいなことを、ずっと言い合ってます(笑)」
輝かしい記憶。それを語り合うのではなく、笑い合う。それが彼らのスタイルだった。少しだけ誇らしそうに、乾は言う。
「いい思い出ですよね。あれは一生忘れないでしょうね」
もしあの時、野洲以外の高校を選んでいたら――。
その問いに対する答えは、永遠にわからない。ただ確かなのは、野洲という選択が、乾貴士を乾貴士たらしめたということだ。そして彼がいなければ、あの伝説のゴールも生まれなかっただろう。
>>中編「乾貴士の高校時代の噂は本当だった!」につづく
乾貴士(いぬい・たかし)
1988年6月2日生まれ。滋賀県近江八幡市出身。野洲高校では2年時に全国高校サッカー選手権大会優勝を経験。卒業後、横浜F・マリノスに入団。セレッソ大阪を経て2011年に欧州へ。ボーフム、フランクフルト(以上ドイツ)、エイバル、ベティス、アラベス(以上スペイン)でプレーし、2021年にC大阪へ戻る。2022年からは清水エスパルスでプレーしている。日本代表では2018年ロシアW杯に出場し活躍。