前編:大谷翔平とバレンズエラ
大谷翔平はメジャーリーグを代表するドジャースの選手という枠を超え、多くの人種やさまざまな価値観が同居するロサンゼルスという街をひとつにする存在となっている。そして1980年代、そんな大谷のような存在としてコミュニティに大きな影響を与えたのがメキシコからやってきたサウスポー、フェルナンド・バレンズエラだった。
【あらゆる人種、あらゆる社会経済層に好かれている】
フィラデルフィアの10月の夜は、敵意と熱狂が渦巻いていた。ロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平が外野でキャッチボールを始めると、スタンドから「オーバーレイテッド(過大評価だ)」と野次が飛ぶ。スタメン発表で名前がコールされれば、ブーイングの音圧は一段と増した。それでも大谷は、静かに手を挙げて応えた。挑発に動じることなく、ただ野球に集中するその姿勢は、何かを象徴しているように見えた。
現地時間10月4日の夜、大谷はポストシーズン史上初めて「1番・投手兼DH」で先発のマウンドに立った。2回に3点を失う苦しい立ち上がり。しかしそこからが真骨頂だった。5回、ナ・リーグ本塁打王のカイル・シュワーバーをカーブで空振り三振に仕留めると、球場の空気がわずかに変わった。試合後、「味方が反撃に出るところまでしっかり粘れば、必ず勝つチャンスがくると思っていた。あそこは勝負どころ。
打撃では4打席連続三振。それでも「すばらしいピッチャーに対してチームとして、どう戦うかが大事」と言いきる。自らを犠牲にしても勝利を優先する姿勢は、ロサンゼルスが愛してやまないヒーロー像そのものだ。9回、バントの構えで時間を稼ぎ、後を託した佐々木朗希が締めて勝利。ポストシーズンで、日本人投手の先発勝利とセーブが同じ試合で記録されたのは、MLB史上初めてのことだった。
「いい集中力で臨めましたし、全体的に楽しめました」。試合後の穏やかな口調の裏に、異国の地で積み重ねてきた覚悟がある。その姿は、大谷が多様性の街ロサンゼルスの人々を結びつけるアイコンであることの証しのようにも見える。熱狂と誇り、そして夢。その中心に大谷がいる。
ドジャースのスタン・カステン球団社長は1年前、筆者とのインタビューで率直に語った。
ロサンゼルス市は「サンクチュアリ都市」として知られる。サンクチュアリ(sanctuary)とは聖域、避難所を意味し、移民を排除する連邦政府の取り締まりに地方自治体が協力しないという立場を取る。結果として、ロサンゼルス市を含む郡全体には、世界中から人々が集まった。100を超える言語が話され、出身国は200カ国以上。多文化共生の理想を体現する一方で、貧富の格差や治安の悪化など、社会の歪みも抱える。
そんな多様な街で、大谷は稀有な存在だ。大谷がプレーする日は、スタンドに集まった人々が国籍も立場も超えてひとつになる。移民も白人も黒人も、保守もリベラルも、子どもも高齢者も、同じ瞬間に歓声をあげる。
【1980年代のバレンズエラが街に与えたもの】
この街を野球でひとつにした存在といえば、かつてもうひとりいた。
1981年、英語を話せないメキシコ出身の20歳が突如としてドジャースに現れ、ロサンゼルスを熱狂の渦に巻き込んだ。シーズン序盤の8試合で7完投、5完封、防御率0.50という伝説的なスタート。名実況アナウンサー、ビン・スカリーは、投げて打って勝ち星を重ねる若者に「フェルナンド、君はどの言語でも、すばらしすぎるよ!」と称賛、「フェルナンドマニア」という言葉が生まれた。『ロサンゼルス・タイムズ』紙は登板日ごとにスポーツ面を拡大した。
最終的に、バレンズエラは公式戦25試合で11完投、13勝7敗、防御率2.48を記録。ワールドシリーズでは宿敵ニューヨーク・ヤンキースに2敗を喫した後の第3戦に先発し、147球を投げ抜いて完投勝利。シリーズの流れを変え、ドジャースは世界一となった。バレンズエラは史上初めてサイ・ヤング賞と新人王を同時受賞した選手となっている。
バレンズエラの偉業は、1981年の快進撃だけにとどまらなかった。彼の登場は、ドジャースという球団そのものの姿を変えた。それまで白人中心だったファン層が劇的に多様化し、今のように人種や文化の壁を越えて愛されるチームへと生まれ変わった。
ご存じのとおり、もともとニューヨーク郊外ブルックリンに本拠を置いていたドジャースは1958年、ロサンゼルスに移転する。市当局はダウンタウン北側のチャベス渓谷の土地を提供し、新球場建設を推進した。商業機能が衰退していた都心部を活性化させるには、市庁舎から1マイル(約1.6キロ)の場所に文化とレジャーの拠点をつくることが必要だと考えたのだ。
だが、その土地にはすでに約1800世帯のラテン系住民が暮らしていた。住民たちは計画に反対し、激しい抗議運動を展開する。1958年6月3日に住民投票が行なわれ、投票総数67万7000票の結果、約2万5000票差で土地の譲渡が承認された。翌1959年5月8日、立ち退きを拒んだ最後の住民の家屋がロサンゼルス郡保安局によって強制的に撤去された。
こうした経緯があったため、ロサンゼルスには多くのメキシコ系住民が暮らしていながらも、長い間ドジャースを応援する人は少なかった。彼らにとって、ドジャースタジアムは"奪われた土地"の象徴だったからだ。
その心の壁を打ち破ったのが、ほかならぬバレンズエラだった。『ロサンゼルス・タイムズ』紙のコラムニスト、ディラン・ヘルナンデス記者は、その歴史的背景をこう説明する。
「住民が強制的に立ち退かされたという経緯があったため、長い間、ヒスパニックの人々はドジャースを応援しませんでした。
興味深いのは、バレンズエラ登場で、メキシコ系コミュニティ内部の分断までもが癒されたという点だ。ヘルナンデス記者は続ける。
「メキシコ系アメリカ人といっても、実はひとつではないんです。たとえば、私の妻は6歳のときにアメリカへ来ました。彼女が育った地域では誰も英語を話さず、完全にスペイン語の世界でした。だから妻は、イーストロサンゼルスに住む3世や4世のメキシコ系アメリカ人のことを、もはやメキシコ人じゃないと言うんです」
バレンズエラがデビューした1981年当時は、不法移民が急増していた時期でもあった。英語を話し、むしろスペイン語を話せない3世以降のメキシコ系アメリカ人は、最近入ってきた移民たちと距離を置く傾向にあり、同じルーツを持ちながらも差別や対立があった。
そんななか、バレンズエラが現れ、マウンドで無敵のピッチングを見せた。彼は新たにやってきた移民たちにとって希望の象徴であり、同時にアメリカで生まれ育ったメキシコ系の誇りをも呼び覚ました。バレンズエラは、ロサンゼルスという街をひとつにしただけでなく、分断されていたラテンコミュニティをもひとつにしたのである。
つづく