ベテランプレーヤーの矜持
~彼らが「現役」にこだわるワケ(2025年版)
第8回:伊藤翔(横浜FC)/前編
三浦文丈トップチームコーチが新監督に就任して公式戦2試合目。
66分からピッチに立った彼は90+4分に左サイドを攻略したカウンターに合わせて一気にペナルティエリアに走り込むと、グラウンダーのクロスボールをダイレクトで合わせ、ゴールに沈める。
「前半は神戸も攻撃から守備の切り替えがすごく早くてなかなか好機を見出せなかったですけど、湿度の高さや暑さによる疲れもあってか、後半は少しずつスペースが空いてきていたので。いつもどおり"仕留めること"はもちろん、ルーズボールを拾うとか、後ろから来たボールの中継地点になって前にボールを送る役目をしようと思ってピッチに入りました。
そのなかで、試合終盤は相手の守備人数が少ないなと感じていたので、僕自身はあえて(自陣に)戻りすぎず、長いボールが来た時に反応できるポジションを心掛けていました。それが功を奏したというか、最後、(ボールに)追いつけてよかったです」
これがチームにリーグ戦9試合ぶりの白星をもたらす、決勝点になった。
「当然ながら勝てていない状況でも毎試合、みんなが勝つために力を注いで、準備していることに変わりはないですが、連敗から脱出するには通常の2倍、3倍の力が必要になる。かつ、勝負の世界では"結果"が出ないとやっていることに説得力が生まれないからこそ、何よりチームとして勝利をつかめてよかったです。
守備陣も踏ん張って無失点で耐えてくれていただけに、なんとか1点取って彼らに報いたいと思っていました。ただ、僕らが置かれている(残留争いという)状況は変わらないので、自分がやるべきことを続けていきます」
◆ ◆ ◆
今年でプロ19年目。FWとして"点を取る"ことを第一の使命に生きてきた。
「試合に出てゴールを決める。チームが勝つためにゴールを決めるという感覚は、いつも当たり前のように備わっていました」
それが「プロサッカー選手として生きていくための術」だと言い切れるほどの"型"になったのは、中京大学附属中京高等学校時代だという。同サッカー部を指導していた道家歩監督は、かつて名古屋グランパスのアーセン・ベンゲル監督のもとでテクニカルスタッフを務めていた人物。その恩師によってプレーの幅を広げたことで、伊藤はストライカーとして覚醒した。
「道家監督によると、ベンゲルさんも(ドラガン・)ストイコビッチのボールの持ち方や緩急をつけるプレーに惚れ込んでいたそうです。のちにアーセナル(イングランド)で指揮を執られていた時には、そのストイコビッチのプレーをティエリ・アンリに植えつけたと聞きました。僕はそのストイコビッチのボールの持ち方を道家監督に落とし込んでもらいました。
具体的には、歩幅やステップを含めて、どの方向にもスピードを上げられるし、スピードを落とせるといった、たくさんのプレーの選択肢を持てる持ち方というか。監督が作る練習メニューもすべてそれに準じていました。
当時の日本は、そこまで細かくサッカーを分析できていたわけじゃなく、今の時代ほどボールの持ち方を言及されることはなかったですが、だからこそ、道家監督の指導はすごく革新的でした。その"型"を備えられたことで、より視野が広がって点を取りやすくなった気がしました」
当時はそうした指導と並行して、道家監督から繰り返しアーセナルの試合映像や同じFWのデニス・ベルカンプやアンリの映像を見せられ、そのプレーを刷り込まれたと聞く。なおかつ、高校2年生の夏休みにグルノーブル・フット38(フランス)へ、高校3年生の夏休みにアーセナルへ赴き、練習に参加した経験は、伊藤の"海外"への欲を強めることにつながった。
「監督に言われるがまま『わかりました、行ってきます』と現地に行き、『わぁ、この選手、ウイイレで見たことがある!』みたいな環境で練習をさせてもらいました。アシュリー・コールやロベール・ピレス、ロビン・ファン・ペルシら、一緒に練習していた選手たちも、僕が道家監督に教わったボールの持ち方をしていて『やっぱりこれが世界のベースなのか』と思った記憶があります。
正直、当時はサッカーを一生懸命やっていただけの大して意識も高くない高校生でしたが(笑)、ふだんから海外のサッカーに触れることが多かった環境のおかげで『いいプレーをしよう、サッカーをうまくなりたい』っていうより先に、自然と『いつかヨーロッパでサッカーをしたい』という思いが育まれていった気がします」
そうした過程を足がかりに、伊藤は高校を卒業した2007年、グルノーブルでプロキャリアをスタートさせる。当時は高校卒業後、Jリーグを経由せずに海外の道を切り拓く選手がいなかった時代。それでもJクラブからのオファーは断って、日本を飛び出した。
「監督から海外の話を聞いたあとの帰り道だったか、車を運転していた父と助手席に座っていた母に向かって、後部座席から『俺が海外に行ったらどうする?』って聞いたんです。そしたらふたりとも、こっちをまったく見ずにひと言だけ『いいんじゃない』と。きっとふたりで答えを決めていたのかも。
だって運転中の父はともかく助手席の母ですら、後ろを振り向こうとしなかったから(笑)。おそらく寂しい思いを押し殺していたんじゃないかな。それに対して、僕も『"いいんじゃない"をもらえたから行ってくるわ』と。無知がゆえに飛び込めたところもあったかもしれないけど、怖いとか、不安とか、そういう気持ちはいっさいなかった」
ただ、今になって振り返ると「とにかく情報不足だったのは否めない」とも言葉を続ける。
「大人になった自分が当時の自分に声を掛けるなら、『もっと、インターネットで調べられただろ?』ってことを一番に言いたいです。そのくらいプロになることに関しても、海外でプレーをすることについても、まったくアンテナを張れていなかった。
SNSもさほど普及していなかったし、LINEなんて便利なものはなかった時代で、スカイプくらいしか連絡を取る手段がなかったとはいえ、とにかく行ってから知る、直面して学ぶみたいなことが多すぎました」
そう考えるのは、グルノーブルの2シーズン目に太もも裏を痛めて長期離脱を強いられたからでもある。海外でのプレーにおいても、少しずつプレーの手応えを感じられるようになっていた矢先の大ケガはキャリアを大きく揺るがした。
「高校時代に備えた"型"があった分、正直、グルノーブルでも技術面では通用する実感がありました。当時の日本は『止めて、動かして、出す』みたいな2タッチでのプレーがよしとされていたのに対し、海外ではもうその時代に『ボールを足元でピタッと止めて相手の動きを止め、そこからプレーに入る』みたいなことを当たり前にやっていましたけど、それにも自分では適応できていたと思っています。むしろ、時間が経つにつれ、今の自分にフィジカルが備わったらチームでの生き方、生かされ方が見つけられそうな感じもしていました。
でも、その矢先の2シーズン目に太もも裏を痛めてしまい......。しかも肉離れだと思ってリハビリしていたら、復帰しても1日でまた切れる、みたいな状態を4回ほど繰り返したんです。そこで、クラブに『いったん、日本に戻って検査させてほしい』とお願いして帰国したら肉離れではなく、腱が切れてしまっていた。
もちろん、ケガも実力のうちなので僕の実力不足に他ならないんですけど、それも元をたどれば僕の情報収集不足が招いたことだったというか。学生時代はケガなんてしたことがなかった分、正直、リハビリがどういうものかもわかっていなかったし、体への理解もなさすぎた。
もっとも、そうした苦境に直面しながらも、伊藤は「仮に今の自分がもう一度、高校時代に戻ってキャリアを選択するとなっても、同じ道を選ぶと思う」と言い切る。
「帰国する時は正直、海外からプロキャリアをスタートしたことの是非は、キャリアを終える時に明らかになるんだろうなと思っていたんです。でも、こうして引退が近づいた今は、永遠にその答えは出ない気もしています。
プロの世界は何試合出た、何点取ったという"数字"も大事で、グルノーブルではそれを求められなかったのも事実だと思います。でも、正解か不正解かではなく、あの時間に自分が納得しているか、いないかを判断するなら、間違いなく納得している。
思い切って飛び込めたから得られたものもたくさんあって、それが今の自分にも息づいていることもたくさんありますしね。って思うから、同じ状況に置かれても『もう一回行く』という答えになるんだと思います。つまり正解、不正解を永遠に判断できることはなく、これが自分のキャリアだということ以外に答えはないのかもしれません」
そう胸を張れるのは、彼がその時の経験はもとより、以降のキャリアでも常に自身で選択した道を、自ら正解にするために全力を尽くしてきたからでもあるはずだ。
実際、グルノーブルを退団後、2010年6月に始まる日本でのキャリアにおいても、伊藤は常にその時々の選択に責任を持って向き合ってきた。帰国して以降は、代理人を介すことなく自らクラブとの契約交渉を行ない、自分にとって何がベストな選択かを考え、判断してきたのも、それを指し示す要素のひとつだと言っていい。
「自分が交渉の席に着けば、きちんとクラブの意向や考え方を理解して次のシーズンに臨むことができますから。それに、クラブごとにいろんなチームづくりの考え方があると知れたのも僕にとっては大きかったです。
そうした考えのもと、所属したJクラブは清水エスパルス、横浜F・マリノス、鹿島アントラーズ、横浜FC、松本山雅FCの5つ(松本は横浜FCから半年間の期限付き移籍)。うち、国内キャリアにおける最初のターニングポイントは、初めてのJ1リーグを戦った清水での4シーズンにあるという。
「グルノーブルを退団することが決まった際に、単純にこの世界で試合に出ることを求めるにはもう一度自分を鍛え直すことが先決だと考え、エスパルスを選びました。当時のエスパルスは健太さん(長谷川/現名古屋グランパス監督)が監督でJ1のなかでも群を抜いて練習がキツいって言われていたんですけど、自分を鍛え直すことを第一に考えるのなら厳しい場所に身を置くべきだろう、と。あとは、岡崎慎司さん、藤本淳吾さんら、いい選手がたくさん在籍していた清水で『揉まれてこい!』と自分にハッパをかけたところもありました」
結果的に最初のシーズンはほとんど試合に出場できずに終えたものの、アフシン・ゴトビ監督が就任した2011年。伊藤は開幕戦から先発のピッチに立つ。
「正直、実力でポジションを勝ち取ったというよりは、監督の方針で若い選手を使うことに振り切ったから出してもらえた感じでした」
そのなかで、コンディションをイチから作り直し"戦える体"を取り戻したことを含め、本当の意味で"プロの世界で戦う"ということを学んだ時間は、のちの長いキャリアを支える礎になった。
「試合に出してもらう限りは、しっかり戦わなきゃ、と思う一方で、冷静に見て、そうそうたる顔ぶれを差し置いて試合に出るほど僕がいいプレーをしていたのか、といえばそうじゃなかったと思います。明らかに足りていないのも自覚していました。
だからこそ、余計にやらなきゃいけない、と思いすぎて気持ちが空回り。右膝を痛めて手術する羽目にもなってしまった。その経験を含めて、あらためて心と体のバランスがあってこそのプレーだと。
(つづく)◆37歳・伊藤翔が追求する"やりがい">>
伊藤翔(いとう・しょう)
1988年7月24日生まれ。愛知県出身。高校時代に「和製アンリ」と称されて脚光を浴びた万能FW。2007年、中京大中京高からフランス2部リーグ(当時)のグルノーブル入り。当時、有望な高校生が国内クラブを経由することなく海外へ渡ることがなかったため、大きな話題となった。グルノーブルに4シーズン在籍後、2010年6月に清水エスパルスに移籍。2014年には横浜F・マリノスに完全移籍した。その後、鹿島アントラーズ、横浜FC、松本山雅FCでプレー。2022年、横浜FCに復帰して奮闘を続けている。