髙津臣吾インタビュー(中編)
髙津臣吾監督は就任2年目の2021年にヤクルトを日本一に導き、22年は「トータルで自信がありました」と、NPB史上最速で優勝マジックを点灯させるなど圧倒的な強さを誇った。しかし、2年連続日本一を目前にしたところで敗退。
【史上最速マジック点灯からの激震】
── 監督3年目となったシーズンは、7月2日にマジックが点灯しました。
髙津 この時は「53」という数字でしたからね。正直、あまり気にはしていませんでした。ただ、ふつうに戦い、僕がしっかりして、大きなミスやポカをしなければ勝てると思っていました。交流戦もぶっちぎり優勝しましたし、いろいろなことがありましたが、自信満々で臨んだ日本シリーズで負けてしまった。それだけに余計悔しさが残りましたね。「絶対に勝てる」と思っていましたし、それくらい自信がありました。
── 7月9日、それまで快進撃を続けていたチームに衝撃が走りました。新型コロナの陽性判定者が、高津監督をはじめ、わずか3日間で27名に達しました。夜の試合を控えた昼下がり、クラブハウスから監督や選手がひとり、またひとりと球場を後にしていくあの静まり返った光景はいまも忘れられません。
髙津 さすがにあれは、びっくりしましたね。これほど多くの陽性判定が出たのは、ウチのチームだけだったかもしれませんが、「優勝なんてそんなに簡単じゃないぞ」と、神様が言っているんだろうなと。そのなかで、自分の体力をどう回復させるか、次に誰を一軍に上げるか、いつ誰が復帰できるか......そんなことばかりを計算していましたね。
── 自宅での隔離期間中は一軍の試合をテレビで見て、一軍選手と二軍から緊急昇格した選手たちの実力差を感じたと話していました。
髙津 レギュラー陣に関しては、打線はできあがったチームでした。固定メンバーで戦うことができたし、本当に強力な野手陣だったと思います。ただ、そのあとに控える選手たち、さらにその下の二軍の選手たちとの間には、大きな開きがあると感じました。
もし誰かがケガをしたら、チームは一気に崩れてしまうのではないか。この選手がいなかったら、代わりに誰が入るんだろう。そう考えた時に、なかなかいい案が浮かばなかった。ファームと一軍に差があるのは当然ですが、「できること」と「できないこと」の差をこれほどまでに痛感したのは初めてでした。ある意味で、とても勉強になった期間でもありました。
【ベイスターズとの天王山で3連勝】
── 8月26日からは、2位のDeNAとのビジター3連戦を迎えました。それまで2位チームに10ゲーム以上の差をつけていたものの、その時点で差はわずか4ゲームにまで縮まっていました。
髙津 あの時、ベイスターズは8連勝中で、しかもホームでは17連勝中。とにかく勢いがあって強かった。でも、「3連敗さえしなければいい。ふつうに戦えばそれはない」と思っていたので、特に選手たちへ声をかけることはしませんでした。
── その3連戦では、村上選手が1試合2本を含む4本塁打を放ち、途中加入のキブレハン選手も1試合3本塁打など、チームは3試合で合計12本の本塁打を記録し、見事3連勝。再びゲーム差を7に広げました。
髙津 自分で言うのもなんですが、負けない自信はありました。1つ勝ったら、明日も勝てると思いました。3つ勝てたのは、夏場以降に力をつけたから。そういう時って乱打戦になっても勝てるし、投手戦になっても逃げきれる。そのくらいチームはしっかりしていました。
── 9月の10連戦を前に、先発投手陣のなかからも新型コロナの陽性判定者が出ましたが、チームは崩れることなくマジックを順調に減らしていきました。そして9月25日のDeNA戦。2年目の丸山和郁選手がサヨナラ安打を放ち、チームは2年連続のリーグ優勝を達成。ついに、本拠地・神宮球場での胴上げとなりました。
髙津 まさかのマル(丸山)が打ちましたね(笑)。ファンのみなさんも神宮での胴上げを見たいと思っていたでしょうし、しかも終わり方が1対0のサヨナラ勝ちですからね。いろいろな喜びや想いが詰まった、特別な夜だったと思いますね。
【自信があった日本シリーズでの敗戦】
── 2年連続でオリックスとの対戦となった日本シリーズは、2勝1分からよもやの4連敗となってしまいました。
髙津 先ほども話しましたが、自信はありました。ただ、謙虚に戦わなければいけないし、足元をすくわれてはいけないと思っていたつもりでしたが、今にして思えば、どこかに驕りがあったのかもしれません。第2戦の9回裏、(内山)壮真の代打3ランで同点に追いついた場面もありましたが、あそこで勝ちきれなかった。
そして、バント処理の際に(サイ)スニードとムネ(村上)が交錯するようなお見合いプレーがあったりと、ほんの些細なことが積み重なっていったんです。最後、塩見が空振り三振に倒れた時は、「これでは絶対に勝てない」と痛感しました。

髙津 うーん、そうですね......。いちばんは、若い選手を育てきれなかったという点に尽きると思います。それは間違いなく、我々指導陣の責任です。新しい選手は次々と入ってくるわけですから、その選手たちをしっかり成長させてあげることができなかった。そこが最大の反省点であり、責任を感じているところです。
── 悪い流れが続くように、ここ数年は選手たちのケガが絶えませんでした。
髙津 原因はいろいろあると思います。本来であれば、僕がもっとしっかり選手を管理し、マネジメントして見ておくべきだったのでしょうが、突発的なアクシデントのようなケガも多かったんです。どれだけ注意を払ってケアをしていても、目を光らせていても、起きてしまうケガというのは防ぎきれないものなんだなというのが、今の正直な感想ですね。
── 理想とする打線や投手起用がままならないなかで、データとにらめっこしながら、そしてこれまでの経験から得た知恵をもとに、最適な打順を探り、選手たちの適材適所を模索していました。
髙津 もちろん、人が関わることですから、コーチや選手、そしてファンの方々にもいろいろな考えや意見があったと思います。もしかしたら、もっといい方法があったのかもしれません。それでも自分としては、その時々でできる限りのベストを尽くしてきたつもりです。だから、後悔はありません。
【気が休まる時は一度もなかった】
── 6年間見させていただて、やはり「我慢の監督」という印象があります。1年目には、雄平選手(現・楽天二軍打撃コーチ)がオープン戦で44打席ノーヒットという苦しい状況でも、「リスクを背負ってでも、辛抱強く起用し続ければ、その先に何かが見えてくる気がするんです。これは我慢比べですよ(笑)」と話し、起用を続けました。
髙津 あの時は、「雄平を開幕スタメンで絶対に使う」と最初から決めていたんです。どこかでヒットが出るだろうと思って使い続けていたんですが......まったく打たなかったですね(笑)。
── 今年9月23日の中日戦、2点ビハインドの9回表に清水昇投手をマウンドへ送り出した時、「ああ、調子を取り戻してもらいたいんだな」と感じて、あの"我慢比べ"の話を思い出しました。
髙津 あの時は、もうシーズンも終盤に来ていましたし、自分の感情も含めて、清水に投げさせました。
── この3年間は苦しい時間が続いたと思います。オンとオフの切り替えは?
髙津 ずっとオンでしたね(笑)。本来なら試合のない月曜日がゆっくりできる日なんですけど、実際はまったく休めませんでした。資料を見たり、映像を見たり。たとえ見ていなくても、頭のなかは常に動いている。そうなると、まったく眠れなかったり、食事ものどを通らなかったりで。もう職業病ですよ。でも、それが一軍監督という仕事なんでしょうし、そういうものだと思っています。
── 神宮での試合が終わって、自宅に帰られるまでの車の中はどんな時間でしたか。
髙津 昔、野村(克也)監督がミーティングの時に、「オレは運転中に信号無視をしているかもしれない」と言ったことがあったんです。僕も、まさにそういうことが何度かありました。「あれ? いま青だったっけ」「歩行者いなかったかな」「対向車いなかったかな」とか。そのくらい、常に野球のことを考えていたんです。運転時間は長くないのですが、気が休まる瞬間なんてまったくなかったですね。音楽を流しても、何を聴いているのかまったくわからない。ラジオにしても、誰がしゃべっているのか記憶にない。「あっ、これ野村さんが言っていたやつだ」って(笑)。
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髙津臣吾(たかつ・しんご)/1968年11月25日生まれ。広島県出身。広島工から亜細亜大に進み、90年ドラフト3位でヤクルトに入団。魔球シンカーを武器に守護神として活躍し、最優秀救援投手に4度輝くなどヤクルト黄金期を支えた。2004年、MLBのシカゴ・ホワイトソックスに移籍し、クローザーとして活躍。その後、韓国、台湾でもプレー。11年、独立リーグの新潟アルビレックスBCと契約。12年には選手兼監督として、チームを日本一へと導く。同年、現役を引退。14年にヤクルトの一軍投手コーチに就任、17年から二軍監督を務め、20年から一軍の監督として6年間指揮を執った。21、22年とリーグ優勝を果たし、21年には日本一に輝いた