髙津臣吾インタビュー(後編)

 髙津臣吾監督は二軍で3年、そして一軍で6年間指揮を執り、「チームを循環させたい」という思いのもと、選手の育成に力を注いできた。二軍時代には、高橋奎二の持つポテンシャルに惚れ込み、高卒新人だった村上宗隆を4番で起用し続けた。

そんな髙津監督に、選手育成という視点からこの9年間を振り返ってもらった。

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【選手育成には我慢が大事】

── 育成がうまくいった選手もいれば、思うような結果にならなかった選手もいました。

髙津 未熟だったり、若かったり、まだうまくいかなかったりするからこそ、二軍にいたり、レギュラーになれなかったりするんです。だからこそ、「我慢」というものが本当に大事で、その選手に対して目をつぶる期間をどれだけつくってあげられるかですね。

 二軍監督をしていた3年間は、古賀(優大)や(高橋)奎二たちと時間を共有してきましたが、少しずつではありますが、確実にいい方向へ進んできています。今年なんて、古賀はケガ明けでどうなるかと思っていたら、打率.280ですからね。キャッチャーとしても、ピッチャーが気持ちよく投げられる、信頼のおける存在になってきたと思います。

── 一軍で育てながらチームを勝たせるというテーマに挑みました。

髙津 本来であれば、段階を踏んで一軍に上がってくるのが理想だと思っています。ファームでしっかり練習をこなし、実戦経験を積み、体も人間的にも大きくなってから一軍に上がってくる。それが理想的な流れですよね。ただ、一方で、ファームで試合に出すよりも、一軍でプレーさせたほうが成長する部分も間違いなくあると思っています。一軍でしか味わえない緊張感や、三振してもそれが糧になるような経験など、現場でしか得られないものがあるんです。

 だから期待する若手に関しては、多少の失敗には目をつぶって起用することも多かったですね。正直、メンバー的に余裕があったわけではありませんが、そうした経験を積ませられる環境が、もっと整っていけるチームになればいいなと、ずっと思っていました。

── 我慢してでも使いたい選手の条件は? 誰でも彼でも目をつぶったわけではないと思います。

髙津 僕から見て、魅力があることですかね。何か人にはないものを持っているとか、もう少し叩けば大きくなるんじゃないかと思わせるような要素がある選手じゃないと、なかなか観察期間というのは取れないんですよ。

 だから、コーチたちはイライラすることもあったと思います。「この選手、そろそろ外しませんか?」「いや、もう少し待ってくれ」「入れ替えましょうか?」「もうちょっと置いておいてくれ」。そんなやり取りはよくありました。

── 長岡秀樹選手、内山壮真選手は、辛抱強く起用した印象があります。

髙津 壮真は、もし塩見(泰隆)や(ドミンゴ・)サンタナがケガをしていなかったら、外野で起用することはなかったと思います。本来は3番目の捕手としてベンチに置いていました。何試合かに1回先発で出て、何試合かに代打で出て......という感じになったと思います。

そう考えると、ああいう巡り合わせも運かもしれないし、同時に実力でもあるのかもしれません。目の前にぶら下がったチャンスをつかむかどうか。それは本当に大きいことですよね。

── 長岡選手はゴールデングラブ賞や年間最多安打のタイトルを獲得しました。

髙津 今年はケガがありましたからね。彼には、プロ野球の世界でどんな形で活躍していくのか、そのシルエットというか像を、今後はっきりと形にしていってほしいと思っています。でも、あのふたりは一軍では年下なんですけど、しっかりやっていると思いますよ。ただ、それも先輩たちが変にプレッシャーをかけずに、ちゃんと面倒を見て、楽しく野球をやらせてあげているからこそだと思うんです。そういう関係性が築けているのを見ると、それだけでうれしくなりますね。

【高橋奎二への思い】

── 今年は、卵から孵化しつつある選手が多く出ました。反面、チャンスをつかみきることの難しさも感じました。

髙津 これはもう、ほとんどピッチャーですね。山野(太一)、奎二、ヤス(奥川恭伸)......そのあたりが思うように結果を出せなかった。

正直、この3人で45勝はできると思っていますから。奎二なんて、今年「17勝します!」って言っておきながら、結局8試合しか投げてないんですよ。ふざけんなって話ですよね(笑)。まあそういうところも含めて、期待してしまうんですけどね。

── 監督が育成選手として、いちばん最初に目をとめたのが高橋投手でした。「あの子もここまでなのかな」と言葉を漏らしたこともありました。

髙津 奎二はね、強い部分と弱い部分が同居しているんですよ。強い時は一気にドーンといくんだけど、一瞬でも弱さが出てしまうと、その分、倍以上落ちてしまう。まあ、人間だからいろいろあって当然なんですけどね......。

 うーん、技術じゃないな。精神的な部分を克服して、体も強くなっていかないと。これから野球人として、ピッチャーとして一番いい時期を迎えるので、きっとやってくれると思いますよ。

でも、まだまだ成長段階なので心配だなぁ(笑)。

── いま選手たちには何を伝えたいですか。

髙津 誰もが、いつかはユニフォームを脱ぐ日が来ます。それは間違いありません。だからこそ、終わる時に「あの時、もう少しやっておけばよかった」とは思ってほしくないんです。僕自身、現役時代は野村(克也)さんからいつも難題を突きつけられて、その答えを古田(敦也)さんと一緒に探していました。「こんなの解けるわけないじゃん」ではなく、「よし、全力でこの問題を解いてやろう」と、そんな毎日でした。だから選手たちにも、毎日を全力で、どんなに難しいことにも真正面から向き合い、一生懸命努力してほしいと思っています。

【勝った時は泣いてない】

── 6年のなかで、記憶に残っている試合は?

髙津 負けた試合はたくさんあります。1年目の無観客試合の時に、ジャイアンツに0対12で負けたことがあって、ものすごく悔しかった。「オレらはこんなものか」って情けなかった。あと、2022年のオリックスとの日本シリーズで勝ちきれなかった悔しさは、今も残っています。

 いい思い出は、2021年の日本シリーズでの(山田)哲人の同点3ラン、2022年の日本シリーズでの(内山)壮真の代打同点ホームラン、それにムネ(村上宗隆)が三冠王を獲ったシーズン(2022年)最終戦で打った56号ホームランとか、いっぱいありますよ。スコット(・マクガフ)が2021年の日本シリーズではなかなかうまくいかなかったけど、結局は頑張ってくれた、とかね。

【プロ野球】9年間の采配を終えて 髙津臣吾が語る、スワローズに刻んだ育成の哲学と悔しさの原動力
監督経験を次に生かしたいと語る髙津臣吾氏 photo by Kai Keijiro
── 2022年にリーグ連覇した時は、石川雅規選手、青木宣親選手をはじめ、みんなうれし泣きしていて、あの光景は素敵でした。

髙津 オレは泣いてないよ。勝った時は泣いてない(笑)。

── ということは、当時は否定していましたが、2022年の日本シリーズに負けたあとの囲み取材では、やはり泣いていたのですか(笑)。

髙津 泣いたかもしれないけど、あの時はマスクをしていたからよくわからない(笑)。でも、あの連覇したシーンというのは、いま見てもグッときますね。みんなあんなに泣くとは思わなかったし、それだけ苦しかったんだなと。よくチーム一丸といいますけど、本当にみんながひとつになって頑張ったシーズンでしたね。監督になった時の彼らの目からは想像できませんでした。

── 6年間の順位は、6位、優勝、優勝、5位、5位、6位でした。

髙津 うーん、通算成績で負け越しか......情けない。でも、その時その時で一生懸命やってきたので、やれることはやったと思っています。後悔があるかないかと言われると、悔いはあります。ただ、これはもう自分の成長のためのいい題材にしていきたいですね。

── 今季限りでユニフォームを脱ぐことになります。来年のことについては?

髙津 こればかりはわかんない、どこかで会うかもしれないですよ(笑)。でも、ここを去る悔しさや寂しさはすごく持っています。僕は現役時代、「来年は契約しません」や「戦力外です」というのを7回経験しています。その時々、精神的にも金銭的にも苦しい時間を過ごしたのですが、そのたびにいろいろなことにトライしてきました。

 今回が現役時代と一緒の、8回目のアレかもしれないですけど、その悔しさを次に生きるための活力にしていきたいですね。現役の時にスワローズをクビになったあともプレーを続けられたのは、その時の悔しさがあったからだと思っているので。

── 髙津監督の原動力は"悔しさ"だったのですね。

髙津 悔しさはずっと持っています。今も悔しいし、涙もろくなってきている。これはもう歳ですね(笑)。でも、いい思いもたくさんさせてもらったので、それも含めて自分のこれからの成長につなげていきたいですね。来年どうなるかはわからないですけど、精一杯、全力で生きていきたいと思います。


髙津臣吾(たかつ・しんご)/1968年11月25日生まれ。広島県出身。広島工から亜細亜大に進み、90年ドラフト3位でヤクルトに入団。魔球シンカーを武器に守護神として活躍し、最優秀救援投手に4度輝くなどヤクルト黄金期を支えた。2004年、MLBのシカゴ・ホワイトソックスに移籍し、クローザーとして活躍。その後、韓国、台湾でもプレー。11年、独立リーグの新潟アルビレックスBCと契約。12年には選手兼監督として、チームを日本一へと導く。同年、現役を引退。14年にヤクルトの一軍投手コーチに就任、17年から二軍監督を務め、20年から一軍の監督として6年間指揮を執った。21、22年とリーグ優勝を果たし、21年には日本一に輝いた

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