Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第14回】エドゥー
(清水エスパルス)
Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。
第14回はエドゥー・サントスを取り上げる。Jリーグ開幕初年度の1993年に清水エスパルスでプレーした彼は、10月3日に亡くなった。58歳の若さだった。ブラジルの偉大なる才能に哀悼の意を示し、彼の足跡を辿りたい。
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1999年秋に、ブラジルを訪ねた。12月にトヨタカップで来日する南米王者、パルメイラスの取材が目的だった。パルメイラスでは「フェリポン」ことルイス・フェリペ・スコラーリ監督、セザール・サンパイオ、ジーニョらにインタビューをすることになっていた。フェリポンはジュビロ磐田の元監督で、サンパイオとジーニョは横浜フリューゲルスで活躍した。彼らとの再会はとても楽しかったのだが、ちょっと意外な記憶が残っている。
「エドゥー・マンガを知っているか?」
取材初日にクラブハウスへ行くと、セキュリティの男性に声をかけられた。
エドゥー・マンガ?
Jリーグ開幕当時から取材をしている僕のデータに、その名前のブラジル人はいない。
レオンが監督を務めたのは清水エスパルスとヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)で(のちにヴィッセル神戸も指揮する)、ミランジーニャは清水とベルマーレ平塚でプレーした。となると、1993年に清水に在籍した「エドゥー・サントス」しかいない。そう伝えると、セキュリティの男性はうれしそうに笑みをこぼした。まるで息子を褒められているかのようだった。
「彼はパルメイラスのアカデミーからプロになった選手で、サンパウロやコリンチャンス相手にゴールを決めた。ライバルを倒してくれたんだ。『プラカール』の表紙になったこともある」
【ドゥンガやロマーリオも招集】
フェリポンの好意とコーディネーター兼通訳さんの腕力で、僕とカメラマンは普通なら入れないクラブの内部にも足を踏み入れることができた。パルメイラスで働いて何十年というスタッフや、長く施設内の植物の手入れをしている職人たちと、コーヒーを飲みながら雑談をしたりした。そこでまた、「エドゥー・マンガを知っているか?」と聞かれた。
「あの選手を知っているか?」と聞かれるのは、海外取材の「あるある」のひとつだ。地元のスター選手がプレーした国の人間に出会えば、それが母国からはるか遠くなら、思わず聞きたくなるのだろう。インターネットとスマートフォンですぐに何でも検索できるようになるまでは、そんなやり取りを世界のあちらこちらでかわしたものだった。
ただ、同じ選手について何度も聞かれるのは、それほど多くない。エドゥーはパルメイラスで188試合に出場して、43ゴールをあげている。資料によってゴール数に微妙な誤差はあるものの、在籍5シーズンの成績としてはなかなかものと言っていい。ブラジルで有名なサッカー専門誌『プラカール』の表紙になったのも、それぐらい期待を集めていたのだろう。
1987年から1989年にかけては、ブラジル代表に選出されている。1987年のコパ・アメリカでメンバー入りしているのだが、その顔ぶれがすさまじい。
前年のメキシコワールドカップに出場したGKカルロスと右SBジョジマール、CBジュリオ・セザール、優れたゲームメーカーのバウドとシーラス、ウインガーのミューレルとストライカーのカレッカらが名を連ねる。
1990年のイタリアワールドカップで主力となるCBのリカルド・ローシャとリカルド・ゴメス、それにジョルジーニョやドゥンガの名前もある。1994年のアメリカで世界チャンピオンに輝くライーやロマーリオも召集されている。
それらセレソンの歴史に残る名手たちに混ざって、エドゥーはメンバー入りしている。それだけでも、彼のポテンシャルが読み取れるというものだ。
ちなみに、このチームで背番号10を背負ったのは、エドゥー・マランゴンだった。
【「華麗なる空中遊泳」でトラップ】
清水には1993年にやってきた。パルメイラスでともにプレーし、のちに監督と選手の関係にもなったエメルソン・レオンが、1992年からチームを指揮していたからだった。
Jリーグのプレ大会となった1992年のナビスコカップで、清水は準優勝を果たしている。1993年に向けた補強の第1弾がエドゥーだった。
チームは開幕戦こそ落としたが、その後は勝ち点を積み上げていく。しかし、トニーニョが早々にケガをしてしまい、攻撃の再編を迫られる。長谷川健太と向島建の後方で、エドゥーと澤登正朗がチャンスメイクと得点を狙っていくことになる。
エドゥーと言えば、ゴール後のパフォーマンスが有名だ。ユニフォームに隠していたチームのキャップをかぶり、両手を広げて喜びを表現した。チームトップの13ゴールを記録したことで、そのパフォーマンスは広く知られることとなった。
左利きのテクニシャンで、弾丸のようなパワフルショットを放った。
そうかと思えば、ソフトタッチでゴールへ流し込んだりもする。
フリューゲルスとの開幕戦で決めたチームのJリーグ初ゴールは、ペナルティエリア内でGKの動きを見極め、利き足ではない右足で流し込んだものである。パスを受けてから一度もゴールを見ていないのだが、そのシュートは鮮やかにゴールへ吸い込まれていった。
FKのスペシャリストでもあった。184cmの長身で、空中戦にも強かった。攻撃的MFとしてのクオリティは、清水に在籍した歴代の外国人でもトップクラスに入る。
個人的に印象深いのは、浮き球の処理だ。ハイボールを胸トラップで収める姿は、まるで空中で止まっているかのようだった。サッカー専門誌の記者だった僕は、「華麗なる空中遊泳」という表現を好んで使った。
在籍1年で清水を去ったのは、Jリーグにとって損失だったのではないだろうか。セカンドストライカー、トップ下、サイドハーフを任せることのできる彼は、21世紀の今なら争奪戦になってもおかしくない選手だった。
キャリアの絶頂期にある彼を、日本でもっと見たかったと思うのは僕だけでないだろう。短くも確かな実績に深く感謝し、謹んでご冥福をお祈りしたい。