近藤弘樹インタビュー(後編)
前編:ヤクルトを支えた「火消し役」近藤弘樹が振り返る地獄の日々はこちら>>
2024年に再び支配下登録を目指していた近藤弘樹だったが、3月の教育リーグでの登板のあと違和感を覚えた。キャッチボール中に「あれ、力が弱いなか」と感じ、「ちょっとやめるわ」と切り上げた。
近藤はこの時のことを、「肩が伸びる感覚があった」と振り返った。
「試合がなくなったので、ピッチングをしておこうと思ったのですが、キャッチボールの時から『ヘンだな』と。ブルペンで立ち投げをしたんですけど、また肩が伸びる感覚があったので、すぐにやめたんです」
【肩はもう厳しいかな...】
この日以降、近藤は二軍の戸田球場で、軽めのキャッチボールをする日もあれば、ノースローの日が続いたり、そしてまたキャッチボールをしたりと、その日の状態を見ながらの調整が続いた。
「スローを再開した頃は、すでに3回目の手術が決まっていて、『どうにでもなれ』と気持ちでキャッチボールしていました」
5月12日の練習前、近藤は練習前に池山隆寛二軍監督(当時)にあいさつ。この光景を、第三者ではあるが「手術するのだな」と沈んだ気持ちで見ていたことを思い出す。
診断の結果は、右肩下方関節包損傷。全治には1年かかると告げられた。3度目の手術の決断は早かった。
「(手術を)しないと100パーセント投げられなかったので、はい。いろいろ切りましたね。半腱様筋(太もも)の筋肉を切って、ここも(膝の下あたり)切って、さらにここにも傷があります。それらを肩に移植しました。
ただドクターからは、『ふつうに野球をしていて切れる場所ではない。ほかの競技ならあるけれど、野球ではアメリカでも前例がほとんどない』と言われました。なんで自分ばかりにヘンなのが来るんだろうと思いましたよ。最初の手術をした場所の下あたりだったので、再建した場所の負荷がどんどん下に来たのかなと......自分を納得させるために、そう解釈ました」
7月20日に戸田球場でリハビリを開始し、8月20日にはキャッチボールを再開。だが、それはまさに手探りのようなキャッチボールだった。9月に入ると、朝8時頃から隣接する陸上競技場で走り込み、その後リハビリメニューに取り組む日々が続いた。
「走り出した頃は、『肩はもう厳しいかな』というのが、心の底のどこかにありました。来年はほぼほぼないと思っていましたけど、動ける時に動いて『これでよくなったりしないかな』という願望もなくはなかったです」
走り終わったあとに「1週間がしんどいです。1日がしんどいです」と語る時の表情は、見ているこちらもつらいものだった。
「あの時はもどかしかったですからね。キャッチボールをしても痛いし、(状態が)上がってこない。もっとやりたいけど、できない。走るのにしても、足も切っているので痛かったです。そのなかで残された日は長くないと考えると、戸田はずっと主戦場だったので、『最後に走っておこう』と、そんな気持ちがずっと続いたという感じでした」
【やっと地獄から解放された】
戦力外通告は二軍のシーズン最終戦後だった。
「妥当だなって。その日のうちに、長いリハビリに付き合ってくれた理学療法士の伊東(優多)さんに『やっとこの地獄から解放されます』という表現であいさつしました。最初の地獄のあとは、上がるのみかなと思っていたんですけどね。地獄がまた来ましたね(苦笑)。まー、長かったです。でも、トレーナーの方たちには本当にお世話になり、感謝しています」
伊東トレーナーは、近藤からの「やっと地獄から解放されました」という言葉を、こう受け止めたという。
「ケガが再発した時は、もっとほかになにかできたんじゃないかと振り返ることはありました。キャッチボールを再開した段階だったので、彼としてはまだやりたい部分はあったと思います。
彼からは『楽天のスカウトになりました』とか、たまに連絡が来るんです。(最初に故障をしてからの)約3年半、お互いが納得することを大事にやってきました。そういう意味では、いい関係性にはなれたのかなと思っています」
近藤はヤクルトでの4年間について、「いいスタートは切れたんですけど......」と言い、続けた。
「そのあとは球団の足を引っ張ってばかりで、手術もリハビリも含め、お金だけかかる選手でした。自分も苦しかったですけど、球団にはほんと申し訳ない気持ちが強いです。今年亡くなられた衣笠(剛)会長は『おまえのピッチングをまた見たいから頑張れ』と、何度も励ましてくださって。もう一度ピッチングをお見せすることができなくて、本当に申し訳ない気持ちが強いです」
戸田球場での約3年半、近藤は地面が凍結するような寒い日も、灼熱の夏の日も、一喜一憂せず、不撓不屈の精神で復活を目指してリハビリに励んだ。
「うーん、やれることはやったという気持ちです。やっている最中はメンタル的にも相当きつくて、やる気が出ない時もありましたが、それでもしっかりやれました。2度の地獄を乗り越えたかと言われたら、結局はダメな状態で終わったので、乗り越えてはないですね。
【スカウト人生のスタート】
今年9月、楽天モバイルパーク宮城。近藤は「夏は暑くて地獄でしたね」と、日焼けした両腕を見せて笑った。
「現役の時はずっと長袖だったので、皮膚が弱っているのか、日焼け止めを塗っても塗ってもダメで......。すごく赤くなって、そこは戦いでしたね」
今年は楽天のスカウトとして、東北6県と北海道を担当した。
「移動には車、電車、飛行機、新幹線、タクシーとすべて使います。今年は勉強の1年として、頑張って動いたとは思うのですが、まだ行けてないところもあるのかなと。来年はもっと効率よく、いろいろ行きたいと考えています。
今は手探りですけど、やっぱりいい選手はほかの人が見てもいいと言いますね。そのなかで、来年以降は自分の色を出していけたらいいかなと。楽天では自分が戦力になれなかった分、しっかり球団の戦力になってくれる選手を裏から支えていきたいですね」
昨年11月29日、近藤は数人の選手たちが自主トレをする戸田球場を訪れた。
「投げられていいね」
若い選手のキャッチボールを眺めると、そう声をかけたのだった。
「この時は、ボールを投げられることがうらやましいという気持ちがありました。
ヤクルトが6年ぶりの優勝を達成した2021年シーズン、近藤の22試合のピッチングは今も色褪せることはない。