セパタクロー男子日本代表
世界一への道 後編
(前編:世界一になったセパタクロー日本代表 「サーカス集団」から脱却し、相手を上回るために何をしてきたのか?>>)
【世界選手権の決勝でハマった戦術】
セパタクロー日本代表の最大の目標は、2026年の愛知・名古屋アジア大会で表彰台の頂点に立つことだ。監督の寺島武志は選手たちに、「それまでのプロセスで、一度は金メダルを取っておこう」とノルマを課した。
今年7月、世界選手権のベトナムとの決勝戦は圧巻だった。
日本は開始早々、ベトナムのアタックを佐藤、市川、春原の3人がブロックで止めた。横一列に並んだ3人がネットを背にして跳ぶブロックは、日本が磨いてきた武器のひとつだ。さらに市川のフェイントが、相手コートの空いたスペースにポトリと落ちる。佐藤のアタックもことごとく決まった。
8-5と日本が3点をリードしたところで、ベトナムがタイムアウトを要求。その後も日本がブロックでプレッシャーをかけ、ベトナムはミスを連発した。第1セットは日本が15-7と圧倒した。
出だしのブロックがハマった、と振り返るのは春原だ。
「いろいろなデータや前の試合も見ていたのですが、ベトナムは結局、トサーが真ん中にトスを上げて、それをエースアタッカーが打ち込んでくるスタイルでした。
チームの得点源でもある佐藤は36歳のベテラン。高校までサッカーをしていたが、亜細亜大学入学後の部活体験でセパタクローに出会った。アクロバティックなプレーに「すごいスポーツだ」と心を惹かれ、のめり込んだ。大学を卒業して、仕事を理由に一度は日本代表を辞退。しかし、「どこかセパタクローをやりきれていない部分が自分の中にあった」と転職を決意した。今も会社のサポートを受けながら、日本代表の活動に参加している。

「自分はパワーで押し切るのではなく、技術を使ってうまく決めるタイプです。頭のなかで対策をいろいろ考えて試合に臨み、それが点数につながりました。
勝因は、もうひとつ。世界選手権の直前にマレーシアで大会があったのですが、チームとしてサーブがよくなかったんです。そこで、チームが勝つために、"サーブをネットに当てて相手コートに入れる"という作戦を立てました。
もうひとりのアタッカー市川は、170cmと小柄ながら、抜群のスピードと思い切りのよさが持ち味だ。トサーの春原は「負けず嫌いで、一度止められても、もう一度、同じコースに打ちにいくタイプ。スピードがあり、どんなトスでも打ってくれる安心感がある」と評する。
第2セットも、日本の勢いは止まらない。1点目は佐藤のアタックだった。トサーの春原がネットの左端いっぱいに速いトスを上げ、相手のブロックを遅らせた。日本が得意とする速い攻撃が決まった。ベトナムのミスを誘発し、連続得点につなげた。ベトナム選手の顔が歪む。焦りが手に取るように伝わってきた。
しかし、日本にもミスが出て、5-7となったところで寺島がタイムアウトを要求する。早めの采配が功を奏した。落ち着きを取り戻し、9-8と逆転に成功。相手の意表を突く4枚ブロックも効果的だった。
身長180cmと高さがある奈良輪がブロックで相手のアタックを止めて、マッチポイントを奪った。最後は市川のローリングアタックで15-10。セットカウント2-0で歓喜の瞬間を迎えた。
真っ先にコートに駆け寄り、喜びを爆発させたのはチームキャプテンの内藤だ。普段は特別支援学級の支援員として働きながら、所属クラブで週3日の練習に参加している。ケガの影響で今回の世界選手権は出番がなかったが、アタックの高さとパワーで右に出る者はいない。

「すごくうれしかったですね。目標にしていた金メダルが獲れたんですから。
【来年のアジア大会へ、さらなる進化を】
寺島の目には熱いものが込み上げていた。
「(金メダルは)ひとつの目標でもあったので、結果を残したことはもちろん......。それがうれしかったのもあるんですけど、ここまでいろいろな人がつないできたものがそこに到達したという喜びですね。
自分が現役の頃もそうだけど、『いつか金メダルが獲れたらいいね』と言いつつ、あまり現実的じゃなかった。やるからにはそこを目指しますって言うけど、でも、そこに対してドライな自分もいた。そこにようやく辿り着いたことの気持ちが大きかったです」
36年の歴史のなかで、たくさんの人がつないだものが、金メダルという形で実を結んだ。「それですね。あの瞬間は」。そう言った寺島が頬を緩ませる。
「それが(目標とする)アジア大会であればなおさらよかったんでしょうけど、毎年行なわれる世界選手権でひとつの形として残るものに行き着いた。喜びというより、感動に近いかな」
春原は、所属するセパタクロークラブ「A.S.WAKABA」の代表を務める平瀬律哉からかけられた言葉を思い出していた。
「『春原たちには、より遠くに行ってほしい』って言われたことがあるんです。最初はパッとしなかったけど、それがなんとなくわかってきました。
たとえば、先達が20年かけて積み上げてきたことを、指導してもらう自分たちは5年でできるようになる。じゃあ、その後の5年とか10年で何をするかというと、自分たちで新しいこと、つまり未知の領域を切り開いていく。それが『遠くに行くこと』なのかなと。その少し先には、自分たちが20年かけて積み上げたことを、また次の世代に3年とか5年で伝えきる。その人たちが、また新しい日本のセパタクローで遠くに行ってくれたらいいなと思っています。
もちろん、負けて苦しい時代がくるかもしれません。だけど、セパタクローがどんどん進化していく、その一端を担うことが重要だと思うんです。先達が0から1で始めてくれたので、自分たちはそれをつなげる役目だと思っています」
選手時代から日本代表を支えてきた、日本セパタクロー協会の常務理事兼事務局長・矢野順也も、日本で配信を見て感慨はひとしおだったという。「泣きましたね。家でひとりで泣いてました。
「今回の世界選手権は、(タイ南部の)ハジャイという場所で行なわれたんです。自分が初めて出場した世界選手権はハジャイでした。確か、第8回大会。今回、第38回大会なので30年前です」
当時も今も、タイが世界最強であることは論を俟(ま)たない。タイとは、絶望的な実力差があった。日本が1点を取ることさえ至難の業。あからさまに手加減をされることもあった。
「タイはすごく優しい国で、1点も取れない日本に対して、できるだけ気づかれないように2、3点をくれるんです。相手の尊厳を傷つけないように、『また来てね』という意味も込めて気持ちよく帰ってもらう。それが30年経って、タイが勝てなかった相手(ベトナム)に勝つんですから。それは、感慨深いですよ」
しかし、余韻に浸っている時間はない。佐藤は「ずっと目標にしているのは、アジア大会で金メダルを獲ること」と気を引き締めた。
その言葉に内藤も呼応する。
「優勝の喜びから覚めた時、『これからもっと大変になる』と思いました。対戦する相手も、日本を強い国と認識するようになる。データも取られるでしょう。本当の戦いはこれから。注目される国になったので、それを超える何かをしていかないといけません」
日本のセパタクローにとって、金メダルはゴールだろうか。おそらく違う。愛知・名古屋アジア大会までの1年をどう過ごすか。真の価値は、そこで決まる。
彼らの挑戦は、まだ終わらない。