世界に魔法をかけたフットボール・ヒーローズ
【第35回】エドウィン・ファン・デル・サール(オランダ)
サッカーシーンには突如として、たったひとつのプレーでファンの心を鷲掴みにする選手が現れる。選ばれし者にしかできない「魔法をかけた」瞬間だ。
第35回は2000年代後半のマンチェスター・ユナイテッドを支えた「守護神」エドウィン・ファン・デル・サールを取り上げる。派手なセーブはない。それはポジショニングが正確だからだ。淡々と仕事をこなし、フィードも一級品。GKに必要な要素をすべて兼ね備えていた。
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ハイクロスを丁寧にキャッチ。ペナルティボックスを飛び出してピンチを防ぎ、強烈なミドルも難なくセーブ。フィードは両足ともに安定していた。マンチェスター・ユナイテッドに今季加入したセンヌ・ラメンス(23歳/前ロイヤル・アントワープ)は、プレミアリーグデビューとなった7節のサンダーランド戦で、第一GKにふさわしい実力を見せつけた。それにしても、時間がかかりすぎてはいないか。
ダビド・デ・ヘア(34歳/現フィオレンティーナ)は至近距離のシュートに神がかり的な反応を見せたものの、守備範囲が絶望的に狭かった。
あの名手が去ってから14年が経ち、マンチェスター・Uの最終ラインはようやく落ち着きを取り戻そうとしている。
あの名手とは、エドウィン・ファン・デル・サールだ。
オランダ代表の正GKでもあった彼は、独特の「オーラ」を醸していた。イージーミスに激高することなく、淡々と仕事をこなす。ポジショニング、コーチングは迅速、かつ的確。198cmの長身を利したクロス対応も申し分なかった。
【19歳までアヤックスのFWだった】
マンチェスター・Uにやってきたのは、2005年のことだった。アヤックスでプロデビューし、チャンピオンズリーグとUEFAカップ優勝に貢献。だが、ユベントスでは動体視力の低下が噂され、その後はフラム→マンチェスター・Uという特殊とも思えるルートをたどっている。
「選手寿命が長いGKとはいえ、ファン・デル・サールは35歳だ。すでにピークは過ぎているのではないか」
クラブ内では厳しい意見が飛び交った。
「動体視力がなんだって? 35歳だからなんだっていうんだ? 彼のプレーを見てからモノを言え」
周囲の雑音に対し、アレックス・ファーガソン監督が薄笑いを浮かべたのを鮮明に覚えている。
スコットランドが産んだ名伯楽は、自らの眼力に絶対の自信を持っていた。デビッド・ベッカム、ライアン・ギグス、ポール・スコールズ、ウェイン・ルーニー、クリスティアーノ・ロナウドなど、多くの名選手を育てた「慧眼」に狂いはなかった。
ファン・デル・サールは終わっていない。
一つひとつのプレーは、実に正確だ。微(び)に入り細(さい)にわたるポジション修正を繰り返しているため、派手なセーブは必要ない。相手FWとの1対1でも腰砕けせず、ゴールエリアにへばりつくような臆病者でもなかった。
さらに、屈強のストライカーが鬼のような形相でプレスをかけてきても、クールにかわす足技も身につけていた。
「アヤックスでは19歳までセンターフォワードだったからね」(ファン・デル・サール)
ショートパスはもちろん、ミドル、ロングパスで攻撃の起点となりえたのは、オランダの名門クラブで培った能力だ。味方の足もとに配したり、相手DFラインの背後に落としたり、彼のキックはマンチェスター・Uのビルドアップに必要不可欠のアイテムだった。
【CL決勝で守護神が珍しく咆哮】
ファン・デル・サールがやって来た2005年のマンチェスター・Uは、深刻すぎるGK人材難に陥っていた。1999年にピーター・シュマイケルがスポルティングへ移籍したあと、GKのレベル低下があきれるほどに進んでいく。
レイモント・ファン・デル・ホーブ(1996年~2002年)、マーク・ボスニッチ(1989年~1991年、1999年~2001年)、ファビアン・バルテズ(2000年~2004年)、ティム・ハワード(2003年~2007年)、ベン・フォスター(2005年~2010年)、トマシュ・クシュチャク(2006年~2012年)......。スリリングなプレーに胸が痛くなった記憶がある。
マッシモ・タイービ(1999年~2000年)は正面に飛んできたシュートをトンネルし、ロイ・キャロル(2001年~2005年)はゴールに向かってファンブルする(VARのない時代ゆえにノーゴール)......嗚呼、なんてヤツらだ。
マンチェスター・Uともあろう名門クラブが、よくもここまで下手を打ったものだ。ファーガソンの類稀(たぐいまれ)なマネージメントにより、シュマイケル退団後の6年間でプレミアリーグを3回制しているものの、GKの力不足は誰の目にも明らかだった。
この不安をファン・デル・サールが一掃する。2005-06シーズンこそ2位に甘んじたが、翌シーズンからプレミアリーグ3連覇。2008-09シーズンの14試合連続無失点、クリーンシート21は依然として破られていない大記録だ。そしてヨーロッパ制覇に貢献する。
2007-08シーズンのチャンピオンズリーグ、チェルシーとの決勝はPK戦に持ち込まれた。クリスティアーノ・ロナウドとジョン・テリーが失敗するなど、やはり大舞台は特異な緊張感に苛(さいな)まれる。
だが、ファン・デル・サールからは気負いが感じられない。ニコラ・アネルカのキックに対し、素早く右に飛んでファインセーブ。喜怒哀楽を表に出さない「守護神」が珍しく咆哮した。
【21世紀でも必ず重宝される】
「このチームは史上最強だ」
9シーズンぶりのCL制覇に胸を張るファーガソンのかたわらに、ファン・デル・サールの笑顔があった。マンチェスター・Uにおけるキャリアは公式戦266試合出場、プレミアリーグ4回、チャンピオンズリーグ1回、リーグカップ3回優勝。数々の栄光に彩られている。
さて、シュマイケルとファン・デル・サールは、どちらがマンチェスター・U史上最高のGKだろうか。
つい最近、イングランドのメディアはバルテズとデ・ヘアも加えてアンケート調査を行なっていたが、偉大なる先達に対してちょっと失礼な気もする。バルテズはイージーミスが散見し、デ・ヘアは先述したように守備範囲が狭かった。
筆者はファン・デル・サールに一票を投じる。シュマイケルの威圧感はすさまじく、彼が前に出てくると及び腰になるFWを何人も目撃した。しかし、この強気はチームメイトをもビビらせ、怒りをともなうコーチングによって少なからぬ若手が「豆腐メンタル」を発症した。
一方、ファン・デル・サールは穏やかだ。コーチングは丁寧で、ミスを受け入れる寛容さも持っていた。また、フィードの正確性でもシュマイケルを大きく上まわり、幾度となく攻撃の起点になっていた。
2011年、ファン・デル・サールは「そろそろ家族のことを考えたい」として引退。翌年から古巣アヤックスのマーケティングディレクターやCEOを務めたのち、2023年5月に要職からも退いている。同年7月に患った脳出血の影響もあり、現在はフットボールの世界から少し離れている。健康面を踏まえると、現場には戻って来る公算は大きくない。
ただ、キックの精度や広い守備範囲など、現代サッカーのGKに必要とされるすべての要素をファン・デル・サールは有していた。バックパスをGKが手で扱うことを禁止された時代のはしりに、彼だけは悠然と、むしろ楽しそうにプレーしていた。
この長身のオランダ人GKは、21世紀でも必ず重宝される。