元スカウト・熊野輝光インタビュー(前編)

 ドラフトの舞台裏には、知られざる人間ドラマがある。オリックス、巨人、阪神で27年間スカウトとして歩んだ熊野輝光は、これまで多くの選手の獲得に尽力してきた。

「獲る」「獲らない」の判断の裏には、現場とフロントのせめぎ合い、そしてスカウトの覚悟があった。

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【1位で契約金1億円を出します】

── 熊野さんはオリックスで14年、巨人で1年、阪神で12年と、スカウト生活27年間で最も思い出に残る選手は誰ですか?

熊野 オリックス時代の2004年ドラフトの金子千尋ですね。球界再編により、オリックスが近鉄を吸収合併することになった年でした。ドラフト3カ月前にNPB連盟のほうから「合併して強くなりすぎるため、この年のドラフト1、2位はなく、3位以降からにしてほしい」との通達がありました。しかし岩隈久志ら主力選手の楽天入りが決まり、ドラフト1カ月前に連盟から「通常どおりで」と再通達があったのですが、ドラフトは大きく方向転換することになりました。

── しかし当時は、自由獲得枠(逆指名)が2枠でしたから、各球団とも早々と決まっていたのではないですか。

熊野 そのため、私が日本楽器(現・ヤマハ)時代の監督だった川島勝司さん(当時、トヨタ自動車監督)に「(金子)千尋をください! 1位で契約金1億円を出します」と頼み込んだのです。

── 金子投手は、当時どのような選手だったのですか。

熊野 長野商で甲子園に出場した時から注目していて、社会人3年目となる2004年は都市対抗では投げましたが、残留を表明していたのです。青田買いに近かったですが、大きく伸びる可能性を秘めていました。当時、トヨタの1つ下に伸び盛りの吉見一起(のちに中日に入団)がいましたね。

── その金子投手ですが、なぜ思い出に残る選手だったのですか。

熊野 せっかく逆指名の約束を取りつけて、トヨタやNPBに書類を提出したのに、球団社長から「ヒジを痛めているという噂を聞いた。

あまり実績がない投手に対して、1億円の冒険はできない」とストップがかかったのです。

── 逆指名を発表しておいて、撤回ができるのですか?

熊野 いえ。結局、宮内義彦オーナー(当時)の承諾が出て、そのまま獲得に至りました。しかし、一難去ってまた一難。今度は新監督に就任した仰木(彬)さんが1月の会議で「なぜ金子なのか? 東北高のダルビッシュ有を入札しないのか」と言い出したのです。ただ球団の方針として、ダルビッシュは回避してほかの選手に行くことを決めてのドラフトだったのです。

── そのあたりが球団フロントから仰木監督に説明されていなかったのですね。

熊野 私は辞表をしのばせていましたが、中村勝広GM(当時)に「待て、早まるな。金子をしっかり育成しようじゃないか」と。私たちはトレーナー、理学療法士、投手コーチらと協力して、綿密な育成スケジュールを立てました。球団をあげて、金子を育てようと。そういう意味で、私にとって印象深い選手なのです。

── 金子投手はプロ4年目の2008年から7度の2ケタ勝利を含む通算130勝。最多勝にも2度輝きました。2014年には優勝チームでないにもかかわらず、MVPに選ばれました。

熊野 プロは結果がすべての世界です。千尋が活躍してから「ドラフト1位で大正解でしたね」と言われましたが、入団時はボロカスに言われました(苦笑)。仰木さんは2005年に亡くなられましたが、千尋の立派な姿を見てもらいたかったし、「よく獲ってきたな」とほめてもらいたかったですね。

【スカウト冥利に尽きた西勇輝】

── いい意味で予想を覆す活躍をして、"スカウト冥利"に尽きる選手はいましたか。

熊野 2008年に菰野高から入団した西勇輝です。彼にかんしては、私は1位で指名したかったのです。

── 西選手は3位でしたね。

熊野 あの年は、150キロのパワー系右腕、東海大三(現・東海大諏訪)の甲斐拓哉を推すスカウトが多かったのです。西は最速141キロでしたが、当時から柔らかい投球フォームが印象的で、コントロールも変化球もよかった。「体ができれば、きっとやれる」と見ていました。

── 甲斐投手の1位、西投手の3位はどのようにして決まったのですか。

熊野 多数決です。9対1でした(笑)。もちろん1票は私です。2位は左腕と決まっていました。ドラフト当日、3位の段階になって、まだ西が残っていたのです。私は選択希望選手の名前を書く役目だったのですが、「西が残っているので行きますね」と、テーブルに陣取る球団関係者に言って、了承を得る前に名前を書き込んでいました(笑)。

── 西投手ですが、3年目の2011年に10勝をマークし、翌年にはノーヒットノーランを達成。金子投手と並び、オリックス投手陣を牽引しました。

熊野 ドラフトは何が起こるかわかりません。選手が期待どおりの成績を残してくれた時こそ、「獲っておいてよかったな」と心から思える瞬間であり、スカウト冥利に尽きます。千尋や西、そして阪神の才木浩人(2016年3位)にしても、彼らの活躍あってこそですね。

── ドラフト1、2位、そして3、4位、さらに5、6位と、素人目に見ても実力はかなり違うように感じます。

熊野 1、2位で獲る選手というのは、ある意味、活躍して当たり前のところもあります。スカウトとしては、3位以降の選手が予想を上回る活躍をしてくれたらうれしいですね。

── 素朴な疑問なのですが、ドラフト会場のテーブルにスカウト以外のフロントのお偉いさんが同席しているのはなぜなのですか。

熊野 上位指名の選手だと契約金1億円、下位でも何千万円という大金が動くわけです。いわば球団の財産を先物買いしているのです。選手の指名の順番など、責任者の了承を得なければいけないわけです。私はスカウト歴が長かったので、「企業だからそういうものだよな」と理解していたところはあります。

【獲っておけばよかったと後悔した選手は】

── 逆に「獲っておけばよかった」と後悔する選手は誰ですか?

熊野 ほんといい選手が多くて、それを言うとキリがないので考えないようにしています。とにかく、毎年新たな気持ちでスカウト活動に臨んでいました。

── なんとか、ひとりだけでも教えていただけないですか。

熊野 うーん......今シーズン終了後に西武から戦力外を受けましたが、激励の意味も込めて、平井克典を挙げさせていただきます。

── どんなところが、熊野スカウトのお眼鏡にかなっていたのですか。

熊野 愛知産業大からHonda鈴鹿に進み、スリークォーターに近いサイドスローで、都市対抗や日本選手権で活躍していました。ボールのキレが抜群によく、「この子ならやってくれる。どうしてもほしい」と思いました。

── 入団当初はリリーバーとして活躍しました。

熊野 2019年はパ・リーグ記録となる81試合の登板を果たすなど、本当によく投げましたね。

つづく>>

熊野輝光(くまの・てるみつ)/1957年8月28日生まれ。香川県出身。志度商から中央大、日本楽器を経て、84年ドラフト3位で阪急(現・オリックス)に入団。1年目から118試合に出場し、14本塁打を記録し、新人王に輝く。92年、トレードで巨人に移籍。93年に戦力外となり、94年にテスト入団でオリックスに復帰するも、同年限りで現役を引退。

その後、オリックス二軍コーチ、スカウトを務め、巨人、阪神でも長くスカウトとして活躍した。2025年から香川オリーブガイナーズの監督に就任

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