語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第35回】岩渕健輔
(青山学院高→青山学院大→神戸製鋼/ケンブリッジ大→
サラセンズ→福岡サニックス→コロミエ→セコム)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。

だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 連載35回目は、1990年代後半に閃きのあるプレーで注目を集め、「ファンタジスタ」と称されたSO岩渕健輔(いわぶち・けんすけ)を紹介する。日本ラグビーの視線が国内にとどまるなか、いち早く海外に目を向けて飛び立った。引退後も日本ラグビー協会の要職に就いて、世界と戦い続けている。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

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「ラグビー界の中田英寿」岩渕健輔は誰よりも世界を見ていた セ...の画像はこちら >>
 野球界では野茂英雄、サッカー界では三浦知良──世界への道を切り開いた選手のひとりとして、ラグビー界では「岩渕健輔」を挙げても異論はないだろう。

 身長178cmと決して大柄ではないものの、想像力に長けたパスと、見ている者をワクワクさせるステップとランで、1990年代後半に人気を博した司令塔だ。若くして世界に目を向けて海外でプレーし、ファンの間では「ラグビー界の中田英寿」とも呼ばれていた。

 岩渕が「いつか海外でプレーしたい」と思ったのは、家族旅行で香港を訪れた小学5年の時。現地で7人制ラグビーの大会「香港セブンズ」を観戦し、衝撃を受けたのがきっかけだった。

 岩渕がラグビーを始めたのは小学3年時。青山学院初等部のラグビー部「コアラーズ」で競技人生をスタートさせた。「ボールを持ちたがりだった」ため、入部当初からSOのポジションを選んだという。

 その後も付属の青山学院で楕円球を追いかけ、高校2年時は東京都予選で準決勝、3年時は決勝まで駒を進める。しかし最後は、ともに國學院久我山に敗れて花園出場の夢は叶わなかった。プレーイングマネージャー的なポジションでチームを牽引した岩渕は、今でも「もう少しうまくやっていれば、國學院久我山に勝てたのでは......」と思うことがあるという。

【村田に続く日本人ふたり目の快挙】

 青山学院大に進学した岩渕は、強豪ぞろいの関東大学対抗戦でも挑戦を続ける。ルーキーイヤーの1994年度には対抗戦5位で大学選手権への切符を獲得したが、1回戦で優勝した大東文化大に敗れた。青山学院大はその後2024年度まで30年間、大学選手権に出場できなかった。

 岩渕が初めて日本代表に選出されたのは大学2年の時、その若さでの選出は当時異例で、将来の司令塔候補として大いに注目された。そして1997年5月に平尾ジャパンの初戦となった香港戦で、平尾誠二監督は岩渕を10番に抜擢。試合は20-42で敗れたものの、スタメンには京都産業大4年のWTB大畑大介も起用されるなど、若きタレントたちの躍動に胸が躍った。

 1998年9月に東京・秩父宮ラグビー場で行なわれたアルゼンチン戦も、岩渕が10番として輝いた試合として覚えている。SH村田亘(わたる)とハーフ団を組んで攻撃をリードし、岩渕はドロップゴールを2本も決める大活躍。アルゼンチンを44-29で下す快挙を成し遂げた。

 青山学院大を卒業した岩渕は、神戸製鋼に入社する。

ただ、大学に行く前から「卒業後は海外で勉強したい」と決めていたため、その希望を叶えてくれた神戸製鋼に所属しながら、1998年の秋にイギリス・ケンブリッジ大学の社会政治学部へ進学を決めた。

 ケンブリッジでの大学生活は、ラグビーが主ではなく勉強に重きを置いていた。ただ、オックスフォード大学との定期交流戦への出場は、誰もが憧れる名誉なこと。文武両道でなければピッチに立つことができない。岩渕は交流戦のメンバーに見事に選ばれ、その証である「ブルー」の称号を獲得した。

 2000年にイギリス留学を終えると、岩渕は帰国せずに神戸製鋼を退社し、イングランド1部の名門サラセンズに入団する。海外クラブとプロ契約を結んだのは、1999年にフランスのバイヨンヌでプレーした村田に続き、日本人ふたり目の快挙だった。

【33歳の若さで引退するも...】

 ただしその時期、日本代表としては苦しんでいたように感じられる。1999年のラグビーワールドカップのスコッドに選ばれるも、平尾監督は本番でキックの正確性とタックル力に長けた廣瀬佳司を重用。残念ながら岩渕には1試合も出番が回ってこず、チームも予選プール3連敗を喫して大会を終えた。

 さらに2002年10月に行なわれた韓国・釜山でのアジア大会(7人制ラグビー)で、岩渕は左ひざを負傷してしまう。多くの代表メンバーがシーズン中ということで参加を辞退するなか、岩渕は「日本代表の矜持を守らなければいけない」と強行出場。

それが結果的に岩渕のラグビー人生を大きく変えることになった。

 韓国との決勝戦で前十字靱帯・内側側副靱帯・半月板の損傷という大ケガを負い、長期の離脱を余儀なくされる。懸命なリハビリで驚異的な回復を見せるも、2003年のワールドカップ出場は叶わなかった。

 2004年、岩渕はサラセンズが提携していた福岡サニックスに選手兼コーチとして移籍。その後、2006年に当時フランス2部のコロミエにも挑戦し、2007年にはセコムの選手兼コーチとして奮闘するも、2007年のワールドカップ出場も届かなかった。

 そして2008年、7人制日本代表の選手兼コーチを務めたのち、選手としてのキャリアにピリオド。静かにブーツを脱いだ。

 しかし、ピッチから離れても、岩渕は歩みを止めることはなかった。

 2009年から日本協会の若手育成プログラム担当になると、2012年から日本代表のGM(ゼネラルマネージャー)に就任。エディー・ジョーンズHC(ヘッドコーチ)を支えて2015年ワールドカップの歴史的3勝を成し遂げ、さらに翌年のリオ五輪では男子7人制日本代表をサポートしてベスト4進出にも貢献した。

 2018年には男子7人制日本代表HCや男女7人制総監督などを歴任し、2019年から日本協会の専務理事に就任。2021年の東京オリンピックでは男子7人制日本代表の指揮官も兼任した。

 岩渕は33歳という若さでブーツを脱いだ。しかし、世界のラグビー関係者から「ケニー」の愛称で知られる男は、その後も日本ラグビーが世界と互角に戦うために尽力を続けている。

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