江川卓、知られざるアメリカ留学記(前編)

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 作新学院時代、12回のノーヒットノーラン(うち完全試合2回)や145イニング連続無失点など、数々の大記録を残してきた江川卓。とくに、初めて甲子園に出場した1973年春以降は、日本中に"江川フィーバー"が巻き起こった。

 見る者すべてを虜にした圧倒的な才能。その才能があまりに大きすぎたがゆえに、周囲の人生さえも変えてしまった江川卓の軌跡を描いた書籍『怪物 江川卓伝』(集英社)が発売され、話題を集めている。本稿ではそのなかから、これまであまり語られてこなかったアメリカ留学時代の一部を紹介したい。

日本中が熱狂した怪物・江川卓はなぜアメリカへと渡ったのか 「...の画像はこちら >>

【クラウン拒否と3つの選択肢】

 1977年のドラフト会議でクラウンから1位指名を受けた法政大4年の江川は、後日会見を開いた。

 後見人と称して作新学院の理事長兼自民党副総裁で衆議院議員の船田中が同席するなか、クラウン入団を正式に断った。ここから「空白の一日」につながっていくのだが、この時点で江川には「社会人入り」「ハワイでの浪人」「アメリカ留学」という3つの選択肢があった。

 ただ社会人に進めば、次のドラフトまで2年かかってしまうし、ハワイでの浪人は環境整備が乏しいため、1年間無駄になりかねない。幸い、日米大学野球で対戦したアメリカ代表のラウル・デトー監督の推薦もあってか、南カルフォルニア大学が野球留学という形で受け入れてくれる運びとなった。晴れて、作新学院職員という肩書きで、江川はロサンゼルスへと旅立った。

 ちなみに、ドラフト会議で3度の1位指名を受けたのはNPB史上、江川ただひとりである。

 1978年3月9日、江川はロサンゼルス空港に到着した。現地では財閥系商社の駐在員が世話係として待機しており、万全の状態が敷かれていた。さすが江川である。

 大学のグラウンドに一歩踏み出すと、視界いっぱいにスカイブルーの空が広がり、その中に白い雲がアセントのように柔らかく浮かんでいた。緑の芝と赤褐色の土のコントラストは鮮やかで美しい。空気はほどよく乾き、心地よい風が頬をそっと撫でていく。東京の喧騒のなかで縮こまっていた江川の心も、何かの"澱"が落ちたように晴れ渡り、心機一転、新たな活力が湧き上がってくるようだった。

【特別練習生としての米留学】

 南カリフォルニア大はオリンピックの金メダリストを数多く輩出しており、OBには名だたる学者やトップアスリートが名を連ねる名門校である。もっとも、江川の場合は"留学"といっても正式に大学に入学するわけではなく、野球部の特別練習生として参加するだけで、公式戦に出場することはできなかった。そのためバッターと対戦できる機会は、紅白戦やバッティングピッチャーを務める時に限られていた。

 それでも、カラッと乾いた気候のせいもあって、トレーニングは順調に進み、身体は予想以上のスピードで絞れていった。

 最初は、日米大学野球の時に親しくなった南カルフォルニア大3年のクリス・スミスと1DKのアパートを借りて共同生活をしていた。アメリカでの暮らしにも慣れてきて3カ月ほどを過ぎたころ、共同生活をいったん解消し、駐在員の自宅から12キロほど離れたアパートへと引っ越した。それから毎朝12キロのランニングをこなし、駐在員の家で朝食を摂るのが日課となった。

 駐在員は、江川がロサンゼルスに滞在している間、世話係として目を配っていた。自宅で仕事関係のパーティーを開くと江川を招き、社会人としてのマナーを教えた。

また、日本人がよく訪れるナイトクラブにも江川を連れて行った。

 店でホステスから「あら、江川さんじゃない?」と声をかけられても、江川は「よく間違われるんですよ」とさらりと受け流し、酒はほとんど飲まずに軽妙な冗談で場を和ませる。そうした経験を重ねながら、江川は少しずつ社会性を身につけていった。

【「誰だ? あの日本人は?」】

 7月になると、江川はロサンゼルスからシアトルを経由し、飛行機で約7時間のアラスカ州アンカレッジで行なわれるサマーリーグに参加した。アメリカの大学野球は夏の間は完全オフとなるため、その時期に各大学の有望な2年生を中心とした選手たちが、このアラスカのサマーリーグへ集まってくる。

 アラスカにはリタイア後に移住した富裕層がコミュニティーを形成して暮らしており、娯楽が少ない。そのため、夏の間だけ日系企業や地元企業がスポンサーとなり、全米から優秀なプレーヤーを招集して4チームを編成。7月と8月の2カ月にわたり、48試合のリーグ戦が開催されるのだ。

 大学の年間リーグ戦よりもはるかに多い試合数を、わずか2カ月で消化するハードなスケジュールだったが、江川はむしろそれを楽しんでいた。広大なアラスカでは、移動距離が北海道から沖縄までより長くなることも珍しくない。しかも移動日なしの連戦で、試合の多くはナイター開催。まさに日本のプロ野球シーズンを疑似体験するような、実戦的な"模擬テスト"の場になっていたのである。

 グレイシャー・パイロッツの先発5本柱に組み込まれた江川は、過密スエジュールのなか中3日でローテーションを回していく。

 サマーリーグの間、江川はアンカレッジに住む鉄道技師の家庭に寄宿していた。昼間は部屋の掃除や庭の草刈りを手伝い、午後4時に球場へ向かう。試合は午後7時30分に始まり、終了はだいたい午後11時頃。そこから寄宿先に戻り、用意してもらった夜食を食べて就寝するのは午前2時頃だった。

 ほかの選手の多くはアルバイトをしながらチームに帯同しており、江川の生活環境はそのなかでもかなり恵まれた待遇だったと言える。

 しかし、サマーリーグでは六大学の時のようにはいかなかった。下位打線だからといって気を抜けば、たちまち痛打される。最初は3連敗を喫したが、その後は4連勝を飾り、1試合12奪三振を記録するなど、地元の観客を大いに沸かせた。

 そしてメジャースカウトの間でも、「誰だ、あの日本人は?」と瞬く間に注目されるようになる。

 本調子とまではいかないものの、球威が徐々に戻りつつあったその頃、江川のもとに"ある人"を介して思わぬオファーが舞い込んできた。

つづく>>

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