プロ野球ブルペン史
ヤクルト黄金期を支えた髙津臣吾が語る守護神誕生秘話(前編)

 1974年にセーブ制度が導入されて以降、長らく、絶対的な抑えがいなかった球団がある。当時の12球団のうち、最後にセーブ王の受賞者を輩出したヤクルトである。

じつに、94年に髙津臣吾が初受賞するまで20年かかった。その間、チームの低迷期とほぼ重なっている。

 広岡達朗が監督を務めた78年、ヤクルトは球団初のリーグ優勝、日本一の栄冠に輝いた。だが、翌79年に最下位に急降下。監督が武上四郎に交代した80年は2位に浮上したものの、翌81年から10年連続Bクラス。この惨状を好転させたのが、南海(現・ソフトバンク)監督として73年にリーグ優勝の実績がある野村克也だった。

 就任した90年こそ5位に終わったが、91年に3位でAクラス入り。そして92年、14年ぶりのリーグ優勝に導くのだが、野村は南海時代、佐藤道郎を初代セーブ王に仕立て上げ、江夏豊を先発からリリーフに転向させている。ヤクルトではどう抑えをつくったのか。歴代2位の通算286セーブを挙げ、日本一監督でもある髙津に、入団当時の状況から聞く。

野村克也のひと言から始まった高津臣吾のクローザー人生「おまえ...の画像はこちら >>

【同期の活躍に刺激と悔しさ】

「その時、野村監督がどう考えていたのかはわからないですけど、僕としては、先発であろうがリリーフであろうが、何でもやってここで生き残っていくという思いが強かった。ポジションなんて考えられなかった、というのが正直なところです」

 髙津は広島工高から亜細亜大を経て、90年のドラフト3位で入団。大学同期に左腕エースの小池秀郎(元近鉄ほか)がいて、同年ドラフトでは最大の目玉となり、1位指名でヤクルトを含む8球団が競合。

結局、希望球団ではなかったロッテが交渉権を獲得すると、小池は入団を拒否して社会人入り。小池を外したヤクルトは専修大のエース、岡林洋一を1位で指名した。

 1年目の91年、東都大学リーグで小池のライバルだった岡林は抑えに抜擢され、いきなりチーム最多の45登板。12勝6敗、12セーブという好成績をマークする。ただ、そのうち2勝は10月に先発で挙げており、監督の野村は抑え起用に固執したわけではない。

 一方、髙津は13登板で1勝1敗。その1勝は9月に先発完投で挙げたものだったが、岡林の活躍をどう見ていたのか。

「すごく意識しましたね。大学の頃から同じリーグ、敵としてずっと見てきたので、岡林のすごさもよく知っていましたから。このぐらいのコントロールがあれば、このぐらいのスピードがあれば、このぐらいの変化球があれば、こうしてプロでやっていけるんだなと思ったのが、いい目安になったかもしれない。反面、ちょっと悔しい思いももちろんありながらでしたけど」

 翌92年、岡林は先発に回って15勝。14勝を挙げた西村龍次とともに二本柱となり、野村ヤクルト初のリーグ優勝に貢献する。

髙津も先発として前半で5勝を挙げたが、後半はリリーフ。3勝4敗で西武に敗れた日本シリーズでは髙津の登板機会はなく、岡林は3完投で敢闘賞を受賞。意識する相手に差を付けられた形だが、シリーズ後、髙津は野村から要請を受ける。

【潮崎のシンカーがもたらした転機】

「宮崎の西都で秋季キャンプに入った時、『おまえ、シオザキの球、投げれんか?』って、野村監督に言われたんです。日本シリーズで徹底的にやられた潮崎(哲也)っていうのを見てね、僕が同じような投げ方をしてたっていうところで。そこがスタートでしたね」

 髙津と同じサイドスローの潮崎が投げる遅いシンカーに、野村は着目していた。日本シリーズでヤクルト打線が翻弄されたボールだった。ただ、ヤクルトの3勝のうち2勝は、いずれも最終回に潮崎から放った本塁打が決勝点。決して、手も足も出なかったわけではない。だが、逆に潮崎に2つのセーブを献上し、徹底的に抑え込まれた印象のほうが強かったのだ。

「常識としてなかったですよね。遅い球を投げて抑える、っていうことが。ただ、たしかに潮崎のシンカーは遅かったですけど、真っすぐは150キロ近い強い球を投げていて、同じ腕の振りで110キロ前後のシンカーがくる。

だからまったく打てない。その遅い球がまったく打てないっていうのを目の当たりにして、野村監督がそう言ったと思うんです」

 野村は髙津に「150キロの腕の振りで100キロのシンカーが投げれんか?」とも言った。「シオザキの球」とは、速球と同じ腕の振りで投げる遅い球という意味だった。高津は大学時代からシンカーを投げていたが、真っすぐとの球速差は少ない。新たなシンカーを一からつくり上げることになった。

「ブルペンで投げている横で『もっと遅く』『もっと腕の振りを速く』とか、『もっとこんなイメージで』っていう野村監督の言葉をずっと隣で聞きながら......。一番投げた時で、300球近く投げたと思います。監督が隣にいるのでやめられなくて(笑)」

 監督の要求に加え、打者と同じ目線で受けるブルペン捕手の助言も参考になった。実際に新球シンカーを投げ始めたのは翌93年2月のキャンプ。ブルペンでは正捕手の古田敦也から、スピードの抜け方を伝えられた。

【任されて気づけば抑えの位置へ】

 実戦では左右の打者それぞれのタイプ別に抑え方、カウントの取り方を古田に伝授され、新球の生かし方につなげた。肝要なのは低めに投げることだったのか。

「一番はバッターのタイミングを外す、というところじゃないですかね。たしかに、高めにいくと、なかなかタイミングが外れづらいので、結果的に低めに投げることになります。でも、まずはバッターを前(投手方向)に引っ張り出して、打たせるっていう感じですね」

 相手打者を泳がせるようにタイミングを外し、打ち取るシンカー。のちに代名詞になる武器を習得した高津は、93年5月2日の巨人戦でプロ初セーブを挙げる。先発した荒木大輔に代わって、6回途中から登板。そのまま9回まで投げると、二死一塁からルーキーの松井秀喜に2ランを献上したが後続は断ち、チームは4対3で勝利した。

「おそらく、野村監督も最後までとは思ってなかったと思う。たまたま調子よく、1回、2回と抑えられたので最後までいって、初セーブを挙げた。そこからですね、8回、9回を任されるようになったのは。ただその年は、『僕が抑えだ』とか、これっぽっちも思ったことがないんです。ポジションが後ろになってきたなあ、とは思いましたけど」

 同年の髙津は、チーム最多の56登板で78回1/3を投げている。まだ1イニング限定ではなく、時には6回からリリーフすることもあり、野村から「任せたぞ」といった言葉もなかったという。

終わってみれば救援で6勝、20セーブをマークしてチームが連覇しても、意識は変わらなかったのか。

「ブルペンに電話がかかってきて、『誰だろう?』と思っていたら『行くぞ』ってなって、『はい、じゃあ行ってきます』みたいな(笑)。ずっとそんな感じでした。『おまえが抑えだ』とか言われてないのに、その気になってしまうのもよくないかな、と思いましたし」
 
 それでも、2年連続で西武と対戦した日本シリーズ。髙津は第2戦、4戦、7戦と3セーブを挙げて日本一に大きく貢献する。とくに第4戦は1対0の9回に登板し、ゼロに抑えた。『ヤクルトに守護神・髙津あり』の印象が周りに強く植え付けられ、翌94年は8勝19セーブで自身初の最優秀救援投手賞を受賞。ここまできて、抑えとしての自覚を持つに至ったのではなかろうか。

「うーん、どうかなあ。多少、持っていたかもしれないですけど、あんまり......。抑えって、特別なポジションだと思っているので、そこを僕がやっているという認識があんまりなかったかなと思います。ライバルもたくさんいたし、僕より球の速いピッチャーはいっぱいいたので、そんなのんびりしているような感じではなかったかなと。

常に、競争していたような気がしますよ」

(文中敬称略)

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高津臣吾(たかつ・しんご)/1968年11月25日生まれ。広島県出身。広島工業高から亜細亜大学に進み、90年ドラフト3位でヤクルトに入団。魔球シンカーを武器に守護神として活躍し、4度の最優秀救援投手に輝く。2003年には、通算260セーブ、289セーブポイントの日本記録(当時)を達成。04年、MLBシカゴ・ホワイトソックスへ移籍し、クローザーとして活躍した。その後、韓国、台湾に渡り、4カ国でプレーした初の選手となる。11年、独立リーグ・新潟アルビレックスBCと契約。12年には選手兼任監督としてチームを日本一に導いた。同年、現役を引退。14年に古巣であるヤクルトの一軍投手コーチに就任。16年から二軍監督、20年から25年まで一軍監督を務めた

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