プロ野球ブルペン史
潮崎哲也が語る西武必勝リレー「サンフレッチェ」誕生の軌跡(前編)
巨人の鹿取義隆がリリーフとしての立場を確立する1984年。徳島・鳴門高の1年生だった潮崎哲也は、連日、画面に映る鹿取の勇姿を見ていた。
【鹿取義隆に憧れた少年時代】
「むちゃくちゃ憧れてましたよ。<鹿取>、<鹿取>、<鹿取>って、毎試合テレビをつければ鹿取が出てくる(笑)。子どもの頃から大好きなピッチャーでしたけど、高校2年の時にサイドスローで投げるようになってから、余計に鹿取さんを観察するようになったんです」
鳴門高は1909年創立の伝統校で、野球部は11年に創部。甲子園で優勝1回、準優勝2回の強豪でもあったが、潮崎自身、とくに野球へのこだわりは強くないままに進学し、入部した。当初は背番号5番の内野手で、投手としては二番手。フォームはオーソドックスだったそうだが、なぜ鹿取と同じサイドに転向することになったのか。
「エースと言われる人間がオーバースローで、いいピッチャーだったんですよね。そこで監督から『おまえは横でも下でも投げとけ』っていうふうに言われて。一応、アンダースローも試したなかで、落ち着くところがサイドスローだったということです」
3年生になった86年の春には、もうひとつ、監督から指示を受けた。同年の選抜大会で甲子園に出場した高松西高との練習試合。
「2年生ピッチャーで、1学年下の選手でした。"上から目線"的な言葉になるんですけど、見た目は大したピッチャーじゃなかったんです。ふつうのサイドスローで。でも、きれいなフォームでピュッとシンカーを投げて、右バッターが打てども打てどもショートゴロ、サードゴロで打ち取られる。それで監督が『あれだよ、おまえが目指すところは』って言ったんですよね」
潮崎の投手人生において、最大の武器となるシンカー。その原点は同じサイドスローの相手投手にあり、指導者や先輩に教わったわけでもない。真っすぐ、カーブ、スライダーに加え、独自に習得したものだった。まず、マウンドから見て、右に曲がる球を投げたい──。左に曲がる球がカーブだから、その反対をやろうと考えた。
「簡単な子どもの発想ですよ。カーブが左に曲がるんだったら、カーブと反対の握りをして、反対に投げたら、逆の軌道の球が出るだろうっていう発想ですね。
僕、真っすぐはそんなに速くなかったんですけど、カーブは器用に投げていたっていうか、曲がりが大きかった。初めて対戦する右バッターだったら、ちょっとよけてしまうようなカーブを投げられていたんです。だからカーブとまったく一緒の感覚でシンカー、反対に曲がる球を投げようって考えられたんだと思います」
【わずか2カ月でシンカーを習得】
質のいいカーブがあってシンカーを覚えやすかったのか、習得まで2カ月はかからなかったという。しかも、そのシンカーはいったん浮き上がり、シュート回転しながら落ちていく独特の軌道。ゆえに「魔球」と呼ばれることになるのだが、右バッターの場合、浮き上がるからカーブかと思えば、逆に体のほうに向かってくる。相当に厄介な球だろう。
「まあ、そうですよね。だから、それまで打たれていたカーブでも、シンカーを投げることによって打たれなくなったんです。スライダーにしても、カーブのちっちゃいヤツみたいな、別に大したことない球なのに打たれない。シンカーを投げ出したのは5月か6月かくらいなんですけど、そこからほとんど打たれなくなりました」
身近に測定機器がない時代で球速は定かではないが、真っすぐは「130キロ出るか出ないか」だったという。それでもシンカー、カーブとの緩急も使えて、二番手の扱いながら試合で打たれなくなった。
卒業後、潮崎は社会人野球の松下電器(現・パナソニック)に進む。入社内定時の監督=山口円が鳴門高出身(関西大)という縁もあったが、87年の入社時には新監督に鍛治舎巧が就任。若手を積極登用する鍛治舎の方針により、潮崎は高校出1年目にして試合で起用され、先発も任された。
チームが同年の都市対抗野球大会出場を果たすと、2回戦のヤマハとの試合にリリーフで初登板。先発が初回に7失点と大炎上したあと、2回を1失点に抑えて火を消した。この頃には真っすぐの球速が150キロに迫り、より遅いシンカーが生きていた。
「150キロは絶対出てないです。出て、140キロちょっとくらいだと思いますけど、たしかに『球が速くなったな』っていう実感はありました。じゃあ、何で速くなったか。当時、走ったり、走らされたり、ランニングはやっていましたね。
【史上最年少で日本代表に選出】
入社2年目の88年、エースとなった潮崎は都市対抗1回戦の日立製作所との試合に先発。7安打2失点、10奪三振という内容で完投勝利を挙げた。NTT 東海と当たった2回戦も7回を投げて2安打2失点、9奪三振と好投したが、味方打線が振るわず1対2で敗退。それでも潮崎自身の評価は高まり、大会後、史上最年少の19歳で日本代表に選出された。
8月の世界選手権で4試合に登板(先発3、救援1)した潮崎は、9月、ソウル五輪の野球競技に出場。野茂英雄(新日鉄堺→近鉄)、石井丈裕(プリンスホテル→西武)とともに投手陣の三本柱を形成し、全5試合のうち4試合に登板(先発1、救援3)。日本の銀メダル獲得に貢献した。
高校では二番手だった投手が社会人1年目から主力となり、わずか2年間で日本代表の中心選手へと上り詰めたわけだ。それだけの急成長も、すべてはシンカーが生きて、真っすぐが速くなったからなのか。
「自分ではシンカーを覚えることによって真っすぐも速くなったし、スライダーもよくなったと思っています。
翌89年の都市対抗。潮崎は1回戦からロングリリーフで起用され、プリンスホテルとの準決勝では3回から延長12回まで無失点に抑える好投。13回に一死満塁とされて交代後、決勝点を奪われて敗退した。勝ったプリンスは同大会で初優勝するのだが、監督の石山建一は試合後、「潮崎くんのデキがよく、打てる気がしなかった」とコメントしている。
この年も日本代表に選ばれた潮崎は、インタコンチネンタルカップなどの国際大会で活躍。1位指名で野茂に8球団が競合した11月のドラフトにおいて、西武から単独1位指名を受けた。憧れの人、鹿取の西武移籍が決まったのはその10日後のことだった。
つづく>>
(文中敬称略)
潮崎哲也(しおざき・てつや)/1968年11月26日生まれ。徳島県出身。鳴門高から松下電器に進むと才能が開花。19歳で全日本入りを果たし、野茂英雄や与田剛らとともにソウルオリンピックに出場。










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