証言・棚橋弘至内藤哲也インタビュー(後編)

 棚橋弘至の引退は、新日本プロレスのひとつの時代の終わりを意味する。その時代を最も近くで見つめ、追いかけ、そして超えたのが内藤哲也だった。

憧れから始まった関係は、やがてリングで向かい合い、ライバルとなった。内藤哲也が語る棚橋弘至とは?

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【真似ではなく染みついた動き】

── 内藤さんはデビューして以降、憧れだった武藤敬司選手や棚橋弘至選手のプロレススタイルを取り入れるようになりますよね。

内藤 もともと好きだったのが武藤、棚橋だったので、当時は「真似してる」と言われてもしょうがないぐらいの感じでしたね。

── 意識してやったものではないのですか?

内藤 意識はしてないです。ただ、オレはファン時代、武藤の試合をスロー再生で見て「ロープを走る時はこういう感じなんだ」とか「ちょっと前に出る時はこういうしぐさをして歩くのか」とか、すごく研究してたんですよ。だから高校生の時は、廊下とかで歩き方を真似していましたし、プロレスごっこをしてもオレは武藤役だったし、そんなのもあってか、自分に染みついちゃってた部分があったのかもしれない。だから「うわっ、あいつ武藤の真似してるじゃん」みたいな感じで煙たがられ、ブーイングにもつながったのかなと。

── そもそも武藤さんの真似ができるということがすごい才能なわけですけど、プロレスファンの先頭を走っていた内藤さんが、なぜかファン心理を理解できていなかった?

内藤 やっぱり見る側とプレイヤー側ってちょっと違うってことを、身をもって痛感しました。

── 武藤選手や棚橋選手からすると、内藤さんの試合を見て「オレの影響を受けてるな」ってわかるものですか?

内藤 どうですかね。たぶんそうは思ってなかったんじゃないですか。入門した時から、棚橋とはほとんどしゃべったことがないのでわからないです。あくまでも「いつか倒すべき相手」として接してきたので。

【セミファイナルの屈辱】

── 内藤さんはブレイクしきれない時期がしばらくあって、2013年に悲願のG1初優勝。通常なら翌年のイッテンヨン(1月4日の東京ドーム大会)のメインで、オカダ・カズチカ選手のIWGPヘビー級王座に挑戦するはずですが、あの時はファン投票によって試合順が決められることになりました。

内藤 投票で負けると思いました。ということは、当時の新日本プロレスはオカダ、中邑(真輔)、棚橋は信用しているけど、オレのことは信用してないんだなと。だから、なんとかして内藤をメインから引きずり下ろしたい。じゃあ、どうしようと考えた時に、お客さまのせいにしようとしたんだろうなと思いました。

── 内藤さんの予想どおり、オカダvs.内藤のIWGPヘビー級王座戦がセミとなり、中邑vs棚橋のインターコンチネンタル王座戦がメインになりました。

内藤 やっぱりオレにメインを任せるのは嫌なんだな、怖いんだなって。当時はそんなことを思っていても言えなかった。投票をやると聞いた瞬間、オレを下ろしたいんだなっていうのはわかったし、実際に棚橋、中邑、オカダと比べたら、内藤はどうしても一枚も二枚も落ちてしまうわけで、その3人との差をすごく感じましたね。

 あの時、4人で会見したんですよ。で、オレも「(ファン投票開催は)どうぞ」みたいなちょっと自信ありげなコメントをしたけど、内心は違いましたよね。でも、そこは強がらなきゃいけないわけで、あの時はすごく苦しかったことを覚えています。

── 内藤哲也の歴史を語るうえで、絶対に外すことのできないターニングポイントですよね。

内藤 間違いなくそうでしょうね。それを踏まえて、その翌年の2015年にメキシコに行くわけですけど。

── あそこで外の空気を吸ったことがよかったですね。

内藤 別に最初からロス・インゴベルナブレスを日本に持ち帰ることは決まっていなかったわけで、あそこはオレの感覚でしかなかったけど......持ち帰ってよかった。

── 長年の苦悩があったからこそ、「これを日本でやろう」という直感が働いた。

内藤 ずっとブーイングとか批判的な言葉を浴びて、あんなに大好きだったプロレスをやるのが嫌で嫌でしょうがなかったなかで、メキシコでプロレスをやっている日々はホント楽しくてしょうがなかった。

【新日本プロレスはオカダ推し】

── そしてロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンを結成して、当然、新日本の象徴である棚橋弘至を引きずり下ろしに行くわけですけど。

内藤 棚橋とオカダですね。オレがIWGPヘビー級王座に初挑戦したのが2011年10月10日で、棚橋のデビュー戦の日だったんですけど、9月19日の神戸大会で挑戦表明した時にマイクで「棚橋弘至を引きずり下ろすのがオレの役目だ」って言ったんですよね。やっぱり、その思いは昔からずっと持っていました。棚橋弘至の時代を終わらせるのがオレの役目だけど、最終的に棚橋の引退試合の相手はオレじゃないわけで、それを叶えることができなかったことがすごく悔しい。

── 内藤さんが新日本を退団していなかったら実現したかもですよね。

内藤 でもオレが所属していても、なかったですね。

── なおさら、なかったですかね?

内藤 そう、なおさら。むしろ、辞めたから多少は可能性があったかもしれない。

── ロスインゴとして大活躍して、IWGPとインターコンチも獲って、名実ともに新日本のトップに立ちましたよね。

内藤 立ちましたか? その実感はないですよ。

── 本当ですか?

内藤 いくら会場で人気はあっても、やっぱり新日本プロレスのオカダ推しは感じていたわけで。ただ、ロス・インゴベルナブレスをメキシコから持ち帰った時に、ブーイングとか批判的な意見を気にするのはもうやめて、「自分がやりたいことをやるのがベストなんだ」と思っていたので、もう気にしてなかったですね。もしかしたらトップに立ったのかもしれないけど、それすらもどうでもよくて、まわりの評価を気にせず、自分がやりたいことをやるのが最優先でした。だから実感がなかったのかもしれないです。

【オレのところまで追いついてこいよ】

── そうして完全に振り切ったプロレスをやるようになった時、棚橋選手のことはどう見ていたんですか。

内藤 たぶんロス・インゴベルナブレスに入るまでは、「この人を超えなきゃいけないけど、どうしたら超えられるのかがわからない」という状態でした。シングルマッチで勝ったことはあるけど、存在として超えられない。「どうしたらいいんだろう?」という迷いのなかでずっとやっていたんですけど、ロス・インゴベルナブレスに出会ってからは、むしろ「超えちゃったな」と思って見ていましたね。

でも特別な存在であることに変わりはなく、「常に輝いていてほしいな。まあ、オレのおかげで輝くんだけどさ」っていう感じで、棚橋のことはずっと見てました。

── 「超えちゃったな」と思えた時、一抹の寂しさを覚えたりはしなかったですか。

内藤 2018年の東京ドームで棚橋とインターコンチネンタル王座をかけてシングルマッチをやって勝ったあと、オレはもう完全に上回ったと実感して、リング上でお辞儀をしたんです。「オレが棚橋弘至を追いかけるのはここまでだよ。ここからはあなたがオレのことを追いかけてくださいね」という思いを込めた一礼で。追いかける対象がいなくなったことにちょっとだけ寂しさを感じつつ、「オレのところまで追いついてこいよ」という、それまでとは違う楽しみが自分のなかで生まれたのかなと思っていました。

── それが2025年4月に内藤さんは新日本を退団して、本当の反逆者になってしまった。

内藤 昔、オレがまだ本隊にいた2012年か2013年だったと思うんですけど、ちょっとだけかわした会話のなかで棚橋が「いつか社長になりたい」って言ってたんです。軽い気持ちで言ったのかもしれないけど、オレはそれを覚えていて。だから棚橋が新日本の社長になるって聞いた時、「ああ、あの時に言ってたことが本当に実現するんだな。夢が叶ってうれしいんだろうな」と。

── その棚橋選手がついに引退です。

内藤 オレは武藤敬司がきっかけでプロレスを好きになり、棚橋弘至が好きでプロレスラーを目指すようになった。武藤敬司の引退試合の相手はオレがやりましたけど、棚橋弘至は引退を発表してからいろんな選手とラストシングルマッチをやってるけど、オレとはやっていないわけで。「引退? いやいや、オレと最後のシングルマッチやってないでしょ?」っていうのは、ずっと言い続けたいなと思いますね。


内藤哲也(ないとう・てつや)/1982年6月22日生まれ。東京都出身。2005年、新日本プロレスに入門し、06年にデビュー。08年10月に裕次郎とのコンビでIWGPジュニアタッグ王座を獲得。メキシコ遠征を経て、10年1月4日の東京ドーム大会、同コンビでIWGPタッグ王座を手にした。13年の「G1クライマックス」で棚橋弘至を破り初優勝。16年4月にはオカダ・カズチカを破り、IWGPヘビー級王座を初戴冠。同年度の「プロレス大賞」で最優秀選手賞(MVP)に輝いた。

20年の1月5日の東京ドーム大会でオカダを破り、史上初のIWGPヘビー級&インターコンチネンタルの二冠王者になった。25年4月、新日本プロレスを退団した。

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