「箱根駅伝の手法をマラソンでも」から始まった青山学院大のマラ...の画像はこちら >>

前編:青学大マラソン挑戦史

3月1日に行なわれる東京マラソン。国内外のトップランナーが集う世界最高クラスのワールドマラソンメジャーズの1大会でもあるが、箱根駅伝で圧倒的な強さを見せつける青山学院大にとって、東京マラソンは学生のマラソン挑戦を進めるための区切りとなったレースでもある。

昨年は吉田祐也(GMOインターネットグループ)がOBとして初の世界陸上日本代表に選出されたが、あらためて青学大のマラソン挑戦の系譜を辿る。

【学生長距離界を取り巻く構図が変化した10年】

 2026年の東京マラソン。

 青山学院大の選手たちが初めて東京マラソンを走ってから、ちょうど10年になる。

 この10年間で、学生長距離界を取り巻く構図は大きく変わった。

 箱根駅伝では、青学大の天下が続いている。2015年の初優勝から、すでに9度の総合優勝を数える。まさに、「天下」だ。

 初優勝時のタイムは、10時間49分27秒で、この時は初めての10時間50分切りで「前人未到の大記録」と呼ばれていたが、2026年には10時間37分34秒にまで記録を伸ばした。厚底シューズの登場で記録が伸びる外的な要因もあったが、チームの総合力が伸びていることは間違いない。

 そしてもうひとつ、学生のマラソンに対する取り組み方も大きく変わった。大学生のエリート層ほど、学生時代からフルマラソンに挑戦する選手が増えたのである。学生時代に一本でもマラソンを走ることで、卒業後にさらに記録を伸ばしている。

 今年の大阪マラソンを見ても、創価大出身の吉田響(サンベルクス)がペースメーカーを"置き去り"にして、終盤まで先頭を引っ張ってレースを盛り上げ、國學院大出身の平林清澄(ロジスティード)が2時間06分14秒で日本人トップとなる5位に入って、来年の10月に行なわれるマラソングランドチャンピオンシップ(MGC/ロサンゼルス五輪マラソン代表選考会)の出場権を獲得した。

 2004年に、私は『駅伝がマラソンをダメにした』(光文社新書)を上梓した。そこでは、1970年代後半に、当時は早稲田大学の学生だった瀬古利彦が、箱根駅伝を走りながらも日本のマラソンのトップに君臨していたことを目撃している世代にとって、1990年代後半の状況が物足りなかったことを記している。

 瀬古は、12月第1週に福岡国際マラソンを走ってから(しかも3年、4年の時は優勝)、1カ月後に箱根駅伝を走っていた。その記憶があるので、箱根駅伝からマラソンにつながらない状況がなんとももどかしかった。しかし、この10年間で大学生がマラソンをどんどん走るようになり、しかも社会人相手にも対等に戦える選手たちも出てきた。時代は変わったのである。

 ちなみに、瀬古さんに学生時代の競技生活のことを尋ねたことがある。

「ああ、マラソンがメインだったからね。箱根駅伝はついでに走ってました」

 瀬古利彦の器の大きさを感じた瞬間だった。

 話を元に戻すと、この10年間の大学陸上界全体の流れに大きな影響を与えたのが、やはり青学大だったと思う。

【着想は箱根駅伝の強化メソッド】

 青学大の歴史を振り返ってみると、2015年の箱根駅伝で「三代目・山の神」神野大地(現MABP)が見事な走りを見せて初の総合優勝。しかし、その後に「青学時代」が到来するとは誰も想像すらしていない。

 青学大がマラソンにチャレンジする素地は、すでに2010年代前半に見られていた。

2012年のびわ湖毎日マラソンには、箱根駅伝の2区で区間賞を取った出岐雄大(当時3年)が出場し、2時間10分02秒で9位に入った。このレースはロンドン五輪の選考レースも兼ねていたが、途中の段階では出岐が日本人トップをうかがうシーンもあり、町田の合宿所で見ていた原監督が、

「これ、ひょっとしたら、ひょっとするんじゃないか? と思うほど興奮しました。びわ湖に行っときゃよかったかなと(笑)」

 と話すほど、出岐は見事な走りを見せた(出岐はこのあと中国電力に入社し、青学勢が登場した2016年の東京マラソンがラストランになった)。

 出岐の挑戦は、原監督にヒントを与えたと思う。マラソン挑戦への構想は箱根で初優勝したあとから膨らみ、2015年の夏合宿で監督は学生たちを前に問いかけた。

「全体ミーティングの席だったかな。『このなかでマラソンを走りたい人、手を挙げて』と学級会みたいな感じで聞いたんです(笑)。そうしたら何人かが手を挙げてくれたので、彼らには要所、要所で40km走だとか、マラソンを意識した距離走を入れていきました」

 ポイントは「集団による挑戦」だった。

「マラソン練習、キツいです。淡々と距離をこなす練習が続きます。青山学院の発想は、『苦しいことこそシェアをする』というものです。

これは私自身が箱根駅伝を強化するにあたって学んだメソッドで、集団として強くなっていくことで、学生たちの自己肯定感が高まっていくんです。個人だけじゃない。集団としてのプライドも醸成されていく。箱根では結果を出したところでしたから、今度はその手法をマラソンでも取り入れてみようかな、ということになったわけです」

 こうして集団によるマラソン挑戦がスタートした。

 2016年の東京マラソンのスタート地点に立ったのは、箱根駅伝の2区で区間3位だったエース一色恭志(当時3年、現NTT西日本)、8区区間賞の下田裕太(当時2年)、そして箱根駅伝では補欠に回っていた橋本崚(当時4年)の3人だった。

 レースは東洋大の服部勇馬(現トヨタ自動車)が40km地点では日本人トップ、リオデジャネイロ五輪の選考会も兼ねていたこともあり、期待が高まったが、ここから失速。下田と一色が服部をかわし、下田は2時間11分34秒で10位(ちなみに10代の日本人初マラソン最高記録)、一色が2時間11分45秒で11位に入った。服部は一色と競り合って2時間11分46秒。この年は「箱根優勝の青学大対箱根2位の東洋大」という構図がハッキリとしていた。

 レースが終わり、ミックスゾーンで東洋大の酒井俊幸監督が、

「今回の東京マラソンは学校対抗の意味合いが強かったです。その意味では勇馬が一色君に競り負けたのは悔しいです」

 と話していたのが思い出される。

 そしてこの年が青学大のマラソン挑戦の原点になったと言っていい。

このあと、昨年の東京世界陸上のマラソン代表になった吉田祐也をはじめ、昨年の別府大分毎日マラソンで日本人トップとなった若林宏樹、大阪マラソンで日本学生記録をマークした黒田朝日らが登場する。

 集団による挑戦と、個人の能力の歯車がかみ合いだしたのだ。

後編につづく:「青学は箱根だけ」に対する原晋監督の痛烈な回答

編集部おすすめ