『ハイキュー‼』×SVリーグ コラボ連載vol.2(24)

大阪ブルテオン 清水邦広 前編

【男子バレー】清水邦広が39歳でコートに立ち続ける理由 「怨...の画像はこちら >>

【最初はセッターからスタートも......】

 大阪ブルテオンの清水邦広(39歳)は日本バレーボール界の英雄的な存在として、今年に40歳を迎える。

 その経歴は"熱く激しい"。

 2度オリンピックの舞台に立つ栄誉を手にしたが、オリンピック出場を逃す無念も2度味わった。

ブルテオンの前身であるパナソニックパンサーズのエースとしてもMVPを2度受賞し、チームに栄冠をもたらした。

 一方、自らの不甲斐なさに怒髪天をつき、左手で支柱を殴って骨折したこともある。武蔵坊弁慶や張飛のような古の荒武者がタイムスリップし、現代のコートで舞い踊っているようだ。

「『今に見ていろよ』と闘志に火がつくんです」

 清水は言うが、その反骨心は尋常ではない。それが不可能を可能にもしてきた。長年、彼を突き動かしてきた執念は、もはや透明に映るほど純粋だ――。

 清水は福井県福井市に生まれ育ったが、バレーとの出会いは運命的だった。母親が"ママさんバレー"をしていて、スパイカーだった姿に憧れた。母が心配するほど引っ込み思案だった少年は、小学4年の時に「バレー部に入りたい」と自ら申し出た。

「本来、バレー部に入れるのは5年生からだったんですが、母が校長先生に掛け合い、特別に4年生からやれることになりました。母もうれしかったんだと思います」

 バレーの世界に入ると、我が道を猛然と突っ走った。

「当初からエースが希望でしたが、昔のセオリーとして『左利きはセッターに有利』と言われて。

僕はスパイクを打ちたかったので、"どうしたらセッターやめられるか"を考えて、監督に言われるのと逆のことを1年間やり続けました。

 それでようやく、『お前はセッターがヘタ』となって、6年生からはスパイカーになれたんです。その時のせいで、今でもオーバーが苦手ですね(笑)」

 頑固で不器用な"我流"の始まりだった。当初は、憧れだった母のスパイクのフォームをマネたが、母は右利き。助走が逆足になってしまい、中学で直すのに1年かかった。

「中学の時、うちの町にVリーガーが来たんです。サントリーを5シーズン連続優勝に導き、背負っていた背番号16が永久欠番になったジルソン(・ベルナルド)という伝説的な選手ですが、衝撃がすごかったですね。彼がオポジットだったので、『自分もオポをやるしかない』となりました。

 ジルソンのスパイクを、「どうやって打つんだろう」とビデオで何度も見ました。レシーブなどはそっちのけ。スパイクに全振りでやっていました」

【背中を追い続けたライバル】

 豪傑の逸話のようだが、やり出すと際限がなかった。当時はインターネットもなく、スパイクの打ち方の正解はわからなかったが、体を大きくしようとご飯をもりもり食べた。高校は柔道部にも混ざってトレーニングしたという。

「セッターに対しては厳しかったと思います。僕にトスを上げないと怒っていました。当時はオープントスをダダンと打ち抜く感じで、『とにかく高いパスを上げろ!』と要求していましたね。『3枚ブロックを打ち抜くのがカッコいい』と思っていましたから」

 そして、運命を左右するライバルと出会う。洛南高校のエースで、のちに日本代表の盟友となる福澤達哉だ。

「3年の時の大会はことごとく、福澤がいる洛南に負けました。合宿では勝っても、試合では勝てない。インターハイではベスト8で当たることになり、気合を入れて坊主にしました。しかも試合があった8月11日は、自分の誕生日でした。

 それで3セットを 22-19でリードして『勝った』と思ったんですが。取ったはずの得点が無効になって動揺し、切り替えられずに集中力が切れて逆転負け。試合後はコートに大の字になって、整列もできなかったです」

 福澤は"怨敵"になった。

大学も「同じところに行かない」と、中央大に進学した福澤に対して東海大を選択したが......屈辱感は増すことになった。

「自分も高校では騒がれましたが、オープントスでねじ伏せるだけだったのでトップレベルの大学で通じるはずもなく、1年時はレギュラーには程遠かったです。でも福澤は1年からレギュラーで、大学のオールスターにも選ばれました。

 そのオールスターで、東海大の1年がスタッフをすることになり、福澤がサーブを打つ時に自分がボールを渡すことになったんです。『なんで、こんな差がついたんや』と泣きそうでしたね」

 清水はとことん自分と向き合った。

「『高いトスばかり打っていて、自分は足腰が弱い』と自己分析して、1日5キロの走り込みを欠かさずやることにしました。バレー部の練習を17時から22時までやって、片付けをして寮でご飯を食べたあとに23時過ぎから走ったので大変でしたが。頭に福澤の顔が浮かんでくるんですよ」

 彼はそう言って快活に笑うが、ほとんど怨念だ。

「だけど、どこかで結果を残していたら満足していたかもしれない。大学で福澤にボールを渡していなかったら、今の自分はない。いつも福澤が前を走って、それを追いかけたから強くなれました」

【五輪の出場権を逃し、自身は大ケガを負う】

 清水は大学3年時に代表に選ばれた。身長190cm以上の左利きオポは珍しく、代表の大枠メンバーには選ばれていたが、2007年のワールドリーグ東京大会でケガ人が出て、急きょ『次の日だが行けるか?』という打診があった。彼はふたつ返事で引き受け、朝の練習に合流し、夜の試合に出場した。

そこで勝利に貢献する活躍を見せ、飛躍の足がかりを得た。

 破竹の勢いで、2008年の北京五輪の出場権を勝ち取り、本大会にも出場。福澤とも共闘することになった。

「北京五輪の出場が決まったあと、福澤と自分はなかなかスタートで使ってもらえず、元気があり余っていました。それで深夜に、『散歩に行くか』ってふたり東京タワーに行って、『次は俺たちの時代だ!』『やったるぞ』って叫みましたね(笑)」

 新時代の咆哮(ほうこう)か。ふたりはそのあと、代表の柱になっている。パンサーズでもチームメイトとして、チームに多くのタイトルをもたらしたが......。

「次のロンドン五輪の予選は、僕と福澤が軸でした。でも、自分は予選が始まる2カ月前に足首の手術を受けることになって。福澤は相当プレッシャーがあったはずです。それぞれ期待を背負って戦ったんですが......」

 ロンドン五輪出場の切符は惜しくも逃した。当時、清水は再開したリーグ戦で自身の不甲斐なさにイラ立ち、左手で支柱を殴ってしまった。

「気持ちを入れ替え、初心に戻りました」

 そうして再びパンサーズを優勝に導き、MVPに輝いた。石川祐希という新星が台頭するなかで、清水は度重なるケガを経験しながら、バレー界をけん引した。

 しかし、リオ五輪の出場権も獲得できず、さらなる試練が清水を襲う。2018年に右ひざの前十字靭帯を断裂するなどの大ケガを負い、全治1年と診断された。

「舟状骨の保存治療をして10カ月間のリハビリがあったあとのシーズンで、調子がよかったんです。そこであのケガでしたから、つらさも2倍。自分の場合、内側側副靭帯、半月板、軟骨も同時に損傷していたので。さすがに『もうバレーをやめます』と周りにも伝えました」

【満身創痍でもバレーを続ける理由】

 しかし専門の医師チームのおかげもあって、清水は再起した。東京五輪では若手の石川、髙橋藍、西田有志に道を示し、ベスト8進出に尽力。2021年には福澤が引退を表明したが、彼は現役を続行している。

「根本的にバレーが好きなんですよ」

 清水は豪快に笑う。

「年を重ねて、ケガも抱えてますし、昔のようにジャンプはできない。

でも、『どうしたらいいか』って考えるのが楽しくて、『やーめた』ができないんです(苦笑)。進化し続ける日本バレー界にいられるのは面白いし、SVリーグにも『挑戦したい』という気持ちが勝ちました。今シーズンは、選手とコーチの比重が半々になっていますけどね」

 バレーのため、清水はどんな犠牲も払ってきた。膝だけで9回もメスを入れ、人工関節が必要な1から4段階で、3の段階だという。膝はすぐに腫れ、正座はできず、階段を降りるのもひと苦労だ。

 そんな清水に、最後に質問を投げた。

――タイムマシンで小学4年生の邦広くんに会ったら何を伝えますか?
 
「『バレーボールは楽しいぞ』って。それだけです。今もやり続けているのは、楽しくてしょうがないから。握手して、それを言いたいです」

 清水は胸を張った。

(後編:清水邦広が選んだベストメンバーは、影山飛雄と宮侑のツーセッター 監督目線で欲しい選手は?>>)

【プロフィール】

清水邦広(しみず・くにひろ)

所属:大阪ブルテオン

1986年8月11日生まれ、福井県出身。身長192cm、オポジット。福井工大福井高校時代に春高バレーに出場するなど活躍。東海大学在学中の2007年に日本代表に選出され、翌年の北京五輪に出場した。2009年にパナソニックパンサーズ(現・大阪ブルテオン)に入団後、多くの個人タイトルを獲得するなど、チームを何度も優勝に導いてきた。2021年には東京五輪に出場し、日本代表のベスト8進出に貢献した。

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