学校での部活を取り巻く環境が変化し、部員数減少も課題と言われる現在の日本社会。それでも、さまざまな部活動の楽しさや面白さは、今も昔も変わらない。

 この連載では、学生時代に部活に打ち込んだトップアスリートや著名人に、部活の思い出、部活を通して得たこと、そして、今に生きていることを聞く──。部活やろうぜ!

連載「部活やろうぜ!」
【サッカー】中村憲剛インタビュー前編(全2回)

 もしかしたら、その特別な番号は違う数字になっていたかもしれない。

 川崎フロンターレの「背番号14」のことだ。

 今年、創設30周年を迎えるクラブの草創期に、キャプテンを務めていた中西哲生が身につけ、その後「バンディエラ」(長期にわたってひとつのチームで活動し続けた選手)と呼ばれた中村憲剛が背負ったことで、川崎フロンターレにとって唯一無二の番号になった。その中村から現キャプテンの脇坂泰斗が受け継いだことで、その番号が持つ意味や価値はより高まっている。

【部活やろうぜ!】中村憲剛「14番」は高校時代の先輩に憧れて...の画像はこちら >>
 その「14」をプロ2年目の2004年から17年間まとっていた中村に、現役時代、選んだ理由を尋ねると、決まって「1と4の数字の並びが好きだったから」と答えていた。

 だが、本人も忘れかけていた「14」への潜在意識があった。

 まさに原点──彼自身も、部活動に明け暮れた都立久留米高校(現・都立東久留米総合高校)での青春を思い出すなかで、記憶を呼び覚ましていった。

 自ら「高校サッカー大好き人間」だったと認めるほど、幼いころから全国高校サッカー選手権大会に羨望の眼差しを送っていた。

「Jリーグが開幕するまでは、自分にとってあの舞台が一番キラキラしていた。そこには常に自分が憧れるスターがいた。いつか自分も、選手としてその舞台に立ちたいな、絶対に行きたいなって思って見ていました」

 いまだに当時の興奮がよみがえるのか、自然と言葉に熱がこもる。

【必死に食らいついた練習メニュー】

「初めて真剣にテレビで"センシュケン"を見たのが、小学6年生の時だったと思います。今でも覚えていますけど、(第70回大会の)雨の準決勝、市船(市立船橋高校)対帝京(高校)。2年生でオニさん(鬼木達/現・鹿島アントラーズ監督)が市船の選手として出場していて、子どもながらに『鬼木』という名前が強そうだなって思ったりして(笑)。

 その試合、市船が先制したんですけど、アディショナルタイムに帝京が追いついて、さらに逆転したんです。それはもう、衝撃でした。

 さらに四中工(四日市中央工業高校)との決勝戦。国立競技場が満員になるくらいいっぱいで、試合は2-2で両校同時優勝。東京で生まれ育ったから見にいける距離ではありましたけど、子どもにとって(国立競技場のある)千駄ヶ谷は距離的に遠かったし、感覚的にもその舞台は近いようで、ものすごく遠いような気持ちを抱いていました」

 中学時代は決して名の知れた選手ではなかった彼は、親の勧めもあって都立久留米高校へと進学する。初めてテレビにかぶりついて選手権を見た翌1993年、都立校ながら初の全国大会出場を果たしていたのが久留米高だった。

「当時の選手としてのスペックは、そこ(久留米高)が現実的でもあった。でも、入学してみたら、自分の想像をはるかに越えていました。まず、こんなにも部員が多いのかって。200人くらいはいたんじゃないかな......」

 今、思えば「選手たちのサッカーへの姿勢・本気度を見極める意味も込められていたと思う」と語るように、入部当初は「とにかく走らされるメニューも多かった」。

身体が小さかった彼は、それでも必死に食らいつき、恩師と慕う山口隆文監督から知識を吸収していった。

「中学時代から身長も低くて、身体も華奢だったので、立ち位置(ポジショニング)によって、相手との接触を避けてうまくプレーすることを考えるようになりました。高校生になって、山口監督に実践的なアドバイスをもらい、それを自分で深堀りして、より考えるようになったことで、その質がグッと上がったように思います」

【高校3年生の先輩「ジョリさん」】

 入学当初は1年生のチームで練習していた彼だったが、めきめきと頭角を現すと、夏前にはトップチームの練習に加わるまでになる。

 中村は「もしかしたら、山口監督が担任を受け持っていたクラスの生徒だったということもあって、監督と部員の前に『担任と生徒』という関係性が先に来たことで、コミュニケーションが取りやすかったのかも」と言って笑う。

「それに、どうやったらチームがうまくいくかを考えるような思考回路が自分のなかで働き出しはじめた時期だったので、監督からすると『ちょっと選手として面白そうだな』って思ってくれたこともあったのかもしれない」

 3年生に交じって練習をするようになった中村が目を奪われた選手がいた。高校1年生の時の3年生──大先輩だっただけに「あだ名と苗字しか覚えていない」というが、みんなから「ジョリさん」と呼ばれていた北原先輩だった。

「独特なプレーをする方だったんですよね。プレーするそのリズムも、ちょっとくねくねとした感じで、常に相手の逆を突くような選手でした。スルーパスも上手で。

 あと、PKが衝撃的だったんです。ゆっくりと歩いていって、GKを見ながら届かないところにポーンって蹴るんですよ。まさに、ヤットさん(遠藤保仁)みたいな感じ。だから、ヤットさんがPKを蹴る姿を見て、僕は『ジョリさんだ!』って思っていたくらい(笑)」

 そのジョリさんが背負っていた番号こそが「14」だった。

「ジョリさんは自分とは異なって、立ち位置とかはあまり気にしているような感じではなかったですけど、表現すれば『ひょい、ひょい』って相手を抜いていくような選手。ポジションもトップ下で、自分と同じだっただけに、それはもう憧れましたよね」

 そう言って記憶の扉を開ける。

「だから、今、思い出しましたけど、僕が何で『14』が好きだったかというと、ジョリさんなんですよ。ジョリさんに憧れていたから。

 当時の先輩たちはきっと優しかったんだろうけど、勝手にこっちがビビってたので(苦笑)、自分から積極的に話しにいけるような雰囲気ではなかったですけど、それでも、ものすごくかわいがってもらった。自分が小さかったこともあったかもしれないけど(苦笑)」

【決勝に進むチームの空気を知る】

 ジョリさんこと北原先輩たちがチームの中心だった世代は、選手権で東京都予選決勝まで勝ち進む。惜しくも決勝で国学院久我山に敗れて全国大会出場はならなかったが、トップチームに帯同していた中村は、多くの知見を得た。

「1年生にして、大会に勝ち進んでいく空気感を知りました。次第にトレーニングがピリついていく感じだったり、その緊張感だったり。決勝に進むチームの空気って、こういうものなんだなって」

 先輩たちが引退して新チームがスタートしたあかつきには、「14」を懇願した。同じくジョリさんに憧れていたひとつ上の先輩も希望したというが、最終的に新3年生はひと桁の番号をつけることになり、中村は待望の「14」をつけてプレーする機会を得る。

「僕の人生は、そこでおそらくガッと変わったんです。

間違いなく」

(つづく)

◆中村憲剛・後編>>「帝京戦はそれまでの人生のベストバウト」

【profile】
中村憲剛(なかむら・けんご)
1980年10月31日生まれ、東京都出身。都立久留米高校から中央大学に進学し、2003年にテスト生として参加していた川崎フロンターレに加入。2020年に現役を引退するまで移籍することなく18年間チームひと筋でプレーし、川崎に3度のJ1優勝(2017年、2018年、2020年)をもたらすなど黄金時代を築く。2016年にはJリーグ最優秀選手賞を受賞。日本代表・通算68試合6得点。ポジション=MF。

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