2025年6月、WBO世界ウェルター級タイトルマッチ。王者ブライアン・ノーマンJr.(米国)に挑んだ佐々木尽(八王子中屋)は、5回KO負け。

日本人未踏、ウェルター級世界王座。その壁は想像以上に高く、厚かった。あれから8カ月――。先月19日、再起戦に臨んだ尽は、2回、左フック一閃で相手を沈めた。

 再び、日本人未踏の頂きを目指す24歳の現在地。そして、ともに戦う71歳のトレーナー、中屋廣隆の覚悟を追う。(4回連載/2回目)

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第2回./「History」――色褪せた赤いジャンパー

 2026年1月10日、八王子中屋ジムを訪ねた。

 JR八王子駅北口から、徒歩およそ10分。

 デパートや商業施設、飲食店がひしめき合う西放射線通り、通称"ユーロード"を抜けた国道16号線沿い。古びたビルの1階に、ジムはあった。大きなガラス面。鮮やかなオレンジ色の外観。

どこか「古き良き時代のアメリカのジム」を思わせる。

「わざわざ遠くまで、ありがとうございます」

 丁寧に頭を下げた佐々木尽は、リング上の印象とはまるで違った。

 挑発的な態度で相手を威嚇する姿から連想していた、やんちゃな若者ではない。笑顔が印象的。礼儀正しい好青年だった。

 2025年6月の世界戦では、とどめを刺された左フックで、後頭部をキャンバスに打ち付けた。

 自力では動けず、担架で運ばれてリングを降りた。精密検査の結果、脳内出血などの異常は確認されなかったものの、記憶は断片的となり、頭痛や吐き気に悩まされた。

「『絶対、勝てる』と自信満々でした。アメリカ合宿で現地の有力ボクサーとスパーリングをしても、『全然いける』って感触はあった。なのに、試合当日は浮き足立ってしまった。ノーマンJr.選手は、たしかに強かった。

ただ、それ以前に、自分自身に負けた。経験値が圧倒的に足りませんでした」

 3カ月近い休養を経て練習再開。慎重に回復状況を見極めながら強度を上げ、段階的にスパーリングも再開した。そして12月、再起戦は年明けの2026年2月19日に決まった。

 ノーマンJr.が尽を沈めた左フックは、海を越えて称賛されている。1月末、米老舗ボクシング専門誌『The Ring』が、「2025年度年間最高KO賞」に選出した。尽は自身のXに、「リングマガジン年間最高KO賞に受賞されました(原文ママ)」と投稿した。

「今はとにかく早く、試合がしたい。『佐々木尽は、世界では通用しない』と言われている。それを覆したい。状況を早く変えたい。すぐ試合がしたくて、うずうずしています」

 夕方6時。

練習開始前、尽は軽いシャドーで体を温めながら話した。その様子を少し離れた場所で見守っていた人物が、ゆっくり歩み寄り、穏やかな表情で話しかけた。

「尽、慌てなくても大丈夫だから」

 顎に蓄えた白い髭。顔に刻まれた深いしわ。首に薄手の黒いマフラー、グレーの厚手のパーカーの上に着た、色褪せた赤いジャンパー。中屋ジムのチーフトレーナー、中屋廣隆だ。

「ノーマンJr.との世界戦は、私も相手の実力を見誤ってました。尽も成長していたけれど、同じように相手も成長していた。負けた理由は準備不足。私の責任です。尽には、申し訳ないと思っています」

 1954年5月15日生まれの71歳。高知県四万十町で育った廣隆は、彫刻家を目指して上京し、日本大学芸術学部に入学。

バイト先で知り合った同僚の影響でボクシングに目覚め、大学近くにあった斉田ジムに入門した。21歳だった。

 プロ戦績は1勝2敗1分。学生結婚と第一子誕生を機に引退し、ボクシングからは遠ざかった。30歳の時、古巣の斉田ジムでトレーナーとなり再びボクシングに関わり始める。そして、 1995年1月7日、40歳の時、独立して八王子中屋ジムを開いた。現在のジムは2012年に移転した。

 2000年1月、田中光輝がOPBF東洋太平洋ライトフライ級王座を獲得し、ジム初の王者が誕生。以降も、日本ミドル級王座を9度防衛した鈴木悟、7連続初回KOという当時の日本新記録を樹立した日本フェザー級王者・雄二ゴメス、2012年5月には、日本ミドル級王者・淵上誠がゲンナジー・ゴロフキン(カザフスタン)に挑戦。さらに、2013年7月、荒川仁人がWBC世界ライト級王座決定戦に挑んだ。

 東京都心から離れた八王子にありながら、同ジムは尽以前にも個性溢れた、階級を越えた有力ボクサーを、多数輩出してきた。

 廣隆は、2015年に会長職を長男・一生(いっせい)に譲り、プロモーター業はまかせて、自分はトレーナー業一本に絞った。

70歳を過ぎた今は現役ボクサー相手にミットを構えるのが厳しくなった。三男・廣介がミットを構え、身振り手振り、言葉で伝える。次男・玄太は事務局を支えるなど、父と3人の息子でジムを運営している。

「尽は、少しずつかもしれないけど、間違いなく成長している。焦ることはない、大丈夫だから」

 廣隆は、はやる気持ちを抑えきれない様子の愛弟子を、穏やかに諭した。

 尽が入門したのは、中学1年の時。当時は、小学生の頃から続ける柔道に力を入れており、東京都大会で2位という成績も残した。当時はオリンピック出場が目標だった。

 ボクシングの練習は週2、3回程度。特別、目に留まるような才能は感じなかった。ただ、尽自身は、徐々にボクシングの魅力に取り憑かれ、いつしか柔道よりも熱を入れるようになっていた。

「『つかんで相手を投げる』『押さえ込む』よりも、『殴って倒す』という競技のほうが、性に合っていると思いました。

何より、"プロ"と名のつくアスリートに対する憧れも強かったですね」

 転機は2017年、春――。

 定時制高校に合格した尽が、報告に来た日だった。

【ボクシング】ウェルター級の日本の希望、佐々木尽を支えるのは71歳のトレーナー 3人の息子と一緒に世界の頂点へ
中屋トレーナーが着る赤いジャンパーの背中には、かつての愛弟子の名前が入っている

 当時について廣隆は、2018年3月20日のジムのブログ日記でこう綴っている。

***

 今、高一でアマ戦績は1勝3敗、今月プロテストを受けます。中学までは柔道をしていて、ボクシングは週2・3回の練習でした。

 高校に受かった日『今日からボクシング一本で行きます。チャンピオンになります!』と頼もしい宣言に、驚きと共に嬉しさが込み上げて来た一年前を思い出します。一年でプロテストを受けられる所まで来たかと感慨深いものがあります。

(原文ママ)

***

 プロテストは無事合格。廣隆は、尽にこう告げた。

「ボクシングだけに専念できる環境を整える。生活費は、ファイトマネーだけで賄えるようにするから」と――。

 大胆な約束。しかし、言葉には責任を持った。

 特別な才能など感じないイチ練習生。アマ戦績は1勝3敗。孫ほど歳の離れた教え子が、大きな夢を語ってくれたうれしさはあるにしても、なぜそこまで支えようと決めたのか。
答えに少し時間をかけたのち、廣隆は、やはり淡々と、しかし、言葉に力を込めた。

「まっすぐ、私を見据える澄みきった瞳に、嘘を感じなかったから......かもしれないね」

 澄みきった瞳――。

 廣隆は、尽の瞳に、遠い昔、世界を共に目指した初めての愛弟子の姿を重ねていた。

 尽と同じように、素直で真っ直ぐ。

 名前は、廣隆が着た色褪せた赤いジャンパーの背中に記された「KO PRINCE/BOXING TEAM」の白い文字の間に、青い糸で刺繍されていた。

 ジャンパーはところどころ補修の跡が残り、白く擦り切れている。

 廣隆はそれでも、34年、袖を通し続けてきた。

 脱げない、のではない。

 脱がない、のである。

「私は、物持ちがいい性分なんですよ」

 そう照れたように笑う。

 青い糸で刺繍された文字は、

「YUJI WATANABE」。

 1990年代、国内屈指のファイターとして名を馳せた渡辺雄二。

(第3回につづく)

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