学校での部活を取り巻く環境が変化し、部員数減少も課題と言われる現在の日本社会。それでも、さまざまな部活動の楽しさや面白さは、今も昔も変わらない。

 この連載では、学生時代に部活に打ち込んだトップアスリートや著名人に、部活の思い出、部活を通して得たこと、そして、今に生きていることを聞く──。部活やろうぜ!

連載「部活やろうぜ!」
【陸上】田中佑美インタビュー前編(全2回)

 2025年7月に開催された陸上・日本選手権。近年活況の女子100mハードルで頂点に立ったのは、社会人5年目の田中佑美(富士通)だった。2024年パリ五輪では準決勝に駒を進めるなど、世界の舞台で活躍を続ける田中だが、意外にもこれが初めての日本選手権のタイトルだった。

 田中が陸上を始めたのは中学の時。幼い頃から宝塚歌劇団に憧れを抱き、幼稚園の時に始めたクラシックバレエは「宝塚に入るため」に、中学生になっても続けていた。

【部活やろうぜ!】田中佑美が大泣きした高1のインハイ予選「『...の画像はこちら >>
 その一方で、田中が入学した関西大学第一中学校は部活動に入るのが必須だったため、バスケ部や卓球部も選択肢にあったなか「ゆるい部活動だったから」という理由で陸上部に入った。

 そして、顧問の先生の勧めでハードルに取り組むと、全日本中学校選手権やジュニアオリンピックといった全国大会に出場するまでに成長した。とはいえ、それは才能の一端をのぞかせただけにすぎず、その才能が一気に花開くのは関西大学第一高校に進んでからだった。

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 田中が高校でも陸上を続けることを決めたのは、中学からの友でもあるライバルの存在が大きかった。

「陸上ではギリギリ勝っているつもりだったんですけど、陸上以外では自分が劣っているなと思っていました。だから、高校で彼女が続けるなら、陸上では負けたくないと思い、私も続けることにしました」

 高校でも陸上を続けるにあたり、全国大会の出場実績がある田中のことを周囲が放っておくわけはなかったと想像する。

だが、当時の田中はライバルに「負けたくない」という気持ちが、陸上競技を続けるモチベーションになっていた。

【部活動に改革をもたらした】

 高校時代は圧倒的に田中のほうが競技力は上になったが、それでも彼女がライバルであることに変わりはなかった。

「彼女が自己ベストを更新したり、それまでは予選で敗退していたのが準決勝まで進んだりしたのならば、彼女が成長したぶん、私も絶対に伸ばしたいと思っていました」

 このようにして、関大一高に進学しても陸上を続けた。

 しかしながら、楽しかった中学までの部活動とは一変した。中学の時は同期が10人以上いたのに、高校で陸上を続けたのは田中とライバルである彼女のふたりだけ。それどころか、入部した時点で、女子は3年生が3人、2年生がゼロ、1年生ふたりの計5人という構成で「リレーを組むのがギリギリ」という少人数だった。

「大会で競技場に行くと『徹底』と書かれた旗をスタンドに掲げていました。高校の陸上部はけっこう厳しい部活動でしたね。

 携帯電話が禁止されていたので、入学して最初に覚えなければいけなかったのは、顧問の先生の電話番号でした。先生がいない時は公衆電話から電話をかけるんですけど、『090~』から始まるところ、間違えて『080~』と押してしまって、『人違いです』とガチャっと切られたこともありました(笑)。

 練習メニューも、ワケもわからずにすごい距離を走らされていました。それに練習の終わりには、掃除とミーティングを何時間もやらなければならなかったんです。本当に長くて、終わらないんですよ。

それが嫌で嫌で、仕方なかったです」

 そんなある日、田中は顧問の先生に部活動の改善を直訴する。

「朝練があったので、基本的には私が一番早く学校に行き、職員室に部室の鍵を取りに行っていました。その日は職員室に顧問の先生と私しかいなかったので、『練習メニューに関して、これじゃあ種目特性があったもんじゃない。変えてください』って、すごく怒って直談判しました。

 先生は厳しい方ではあったんですけど、生徒の言い分を100パーセント聞いてくれないわけではありませんでした。その時は『生意気を言うな』って言われましたが、あとになって『これからお前らが練習メニューを立ててみろ』と言ってくれたんです。それからは、生徒が自分たちで相談して練習メニューを決めて、それをお昼休みに先生に提出し、先生からお言葉をいただくみたいな形になりました」

 高校1年生にして、なかなか勇気のいる行動だっただろう。田中は自らの正論を通し、部活動に改革をもたらした。そして、「顧問の先生をギャフンと言わせたい」というささやかな反骨心は、のちに大輪を咲かせることになる。

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【胸のうちで何かが変わった】

 田中が主戦場としていた100mハードルは、中学から高校に上がると、中学規格から一般規格に変わる。ハードルの高さは76.2cmから83.8cmと高くなり、ハードル間の距離も8.0mから8.5mと長くなる(国体やジュニアオリンピックなどは、高さ76.2cm、ハードル間8.5m)。

「高校に入って初めてのレースは、しっかりタイムがかかってしまいました。

最初は(一般規格の)ハードルが高く感じました。でも、その後はわりとすんなり適応して、ぐんぐん記録が伸びていきました」

 こう振り返るように、体躯に恵まれていた田中は、一般規格にすぐにフィットし、めきめきと力をつけていった。ただ、高1の時のインターハイ予選は近畿大会で思わぬ悔しさを味わった。

「6番までが全国大会に行けるんですけど、私は7番で逃しました。当時は正直、近畿大会で決勝に残れるとは思っていなくて、たまたま残れちゃったんです。

 ウォーミングアップをしている時に、緊張して『また走るのか』って弱気になってしまったんです。それで7番という結果。1カ月ぐらい経って、顧問の先生と話している時に、ものすごい後悔に襲われて大泣きしてしまいました。

 ちょっとでも弱気になったら、納得のいく結果ではなかった時に後悔してしまう。自分のなかで『勝ちたい』よりも『後悔したくない』という気持ちが大きかったんです」

 全国大会に進めなかった事実以上に、ネガティブな感情を持ってレースに臨んだ自分を悔やみ、田中の胸のうちで何かが変わった。そして、その苦い思い出から快進撃が始まる。

 中学の時は、ジュニアオリンピックの準決勝進出が全国規模の大会での最高戦績だった。

しかし、高1の秋に出場した日本ユース選手権では、なんと準優勝を果たした。

「初めて全国大会でちゃんと走れたのが日本ユースでした。高1、高2が出場する全国大会です。今でいうU16日本選手権ですね。試合のことはあまり記憶がないんですけど、これが初めての全国大会での入賞でした」

(つづく)

◆田中佑美・後編>>「ストレスで鼻血を出したことも...」

【profile】
田中佑美(たなか・ゆみ)
1998年12月15日生まれ、大阪府出身。中学から100mハードルを始め、関西大学第一高校ではインターハイを連覇し、第9回世界ユース選手権に日本代表として出場する。立命館大学では関西インカレ4連覇、2019年には日本インカレ優勝。2021年4月より富士通に所属し、2022年の日本選手権で3位、2023年世界選手権(ブダペスト)日本代表、2023年のアジア大会で銅メダルを獲得する。パリ五輪では準決勝進出を果たす。

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