学校での部活を取り巻く環境が変化し、部員数減少も課題と言われる現在の日本社会。それでも、さまざまな部活動の楽しさや面白さは、今も昔も変わらない。

 この連載では、学生時代に部活に打ち込んだトップアスリートや著名人に、部活の思い出、部活を通して得たこと、そして、今に生きていることを聞く──。部活やろうぜ!

連載「部活やろうぜ!」
【陸上】田中佑美インタビュー後編(全2回)

◆田中佑美・前編>>「大泣きした高1のインハイ予選」

 高校2年生になると、日本選手権に初出場を果たす。さらには、日本代表として世界ユースにも出場した。

「本当に目の前の試合を一つひとつ、という感じだったので、世界ユースも選考要項がよくわかっていなかったですし、狙っていたわけではありませんでした」

【部活やろうぜ!】田中佑美「高校時代は"何か"と戦っていた」...の画像はこちら >>
 活躍のフィールドが世界へと広がっても、決して高い野心を抱いていたわけではなかった。それでも、田中は大舞台になればなるほど力を発揮した。

「高校時代は、練習と試合とで(パフォーマンスの)差がかなり大きい選手でした。練習や試合の日のウォーミングアップでは、ハードル間のインターバルを3歩で走れないんですから。力が入らないんですよね。

 でも、試合になったらやる気に満ちあふれて、記録がバンッと出る。かなりオンとオフが激しかったですね。どちらかというと、子どもの頃から、注目されたほうが力を出せるタイプでしたね」

 そして、高2の夏、田中はインターハイでついに日本一に上り詰める。

「高2の時は、ひとつ上に藤森菜那さんっていう絶対的に強かった方がいたのですが、インターハイ予選はケガをされていました。

藤森さん以外はどんぐりの背比べだって言われているのを聞いて、地区大会から全部の試合で勝つつもりでがんばりました。

 ただ、インターハイでは、ほかの方々は背負っているものが違います。強豪校で期待されていて、その都道府県のエース。ずっと日本一を目指してきた選手ばかりです。そんな選手たちに対して、自分は『ぽっと出』という自覚がありました。

 でも、自分のなかにはストーリーがあり、その主人公になりきって試合に向かっていました」

【宝塚歌劇団に入りたい夢は...】

 自分が思い描くストーリーのなかだけでなく、現実世界でも田中は主役になった。

「技術的な話をすると、高校の時の私は、ほかの選手よりもハードルを越える時のポジションが前だったんです。それって、精神的にかなり余裕が持てるんですよね。同じテンポで走っていると、私はほかの選手よりもちょっと前にいるので、周りが力んでしまうなか、私はスムーズに走りきれた。それが勝因だったと思います」

 当時のレースを冷静にこう振り返るように、初の日本一は決してフロックではなく、確かな根拠があった。

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 さて、高校2年生にしてインターハイを制した田中は、周囲からは当然「陸上の人」と見られるようになる。となると、「宝塚歌劇団に入りたい」という夢はどうなったのか。

 宝塚歌劇団に入団するには、まずは宝塚音楽学校に入学しなければならない。

義務教育を終えると受験できるようになるが、田中は「高卒資格がほしかった」と言い、中学卒業の時点でその選択肢はなかった。

「宝塚を受験するにあたっては、いわゆるお受験スクールに通って、受験対策をして臨むのが一般的なんです。だけど入るからには、トップになりたかったんです。

 宝塚は、歌や踊り、芝居だけじゃなくて、華やかさみたいなものが大切なので、磨き上げられた状態でギリギリ入団するようではいけない。私にもし才能があれば、原石のまま受かるはずだと考えていました。ふざけた思考回路ですね。調子に乗っていました(笑)」

 そう息巻いていたのも今は昔。ひょんなことから、彼女は宝塚歌劇団入団の夢にフタをすることになる。

 実は高校2年生の時に、宝塚音楽学校の入学願書を取り寄せたことがあった。

「今でこそ、こんなふうに『宝塚が好きです』とか『宝塚に入りたかった』って言っているんですけど、当時は恥ずかしくて、周りには言っていませんでした。受験に必要な書類のひとつに健康診断票があって、かかりつけ医にお願いしなければなりませんでした。

 でも、小さい頃からお世話になっているドクターに『宝塚が好きなんです』ってカミングアウトするのがちょっと恥ずかしくて、足が重かったんです。

すると、両親から『そんなこともできないようであれば、原石はダイヤにはならないし、あなたがそんな気持ちなんじゃ、こちらも応援できない』と言われてしまいました」

【人間関係に苦労していた】

 両親は小さい頃から自分をひとりの人間として扱ってくれた。その両親からの厳しい言葉はこたえた。そして田中は、幼い頃からの夢をあきらめる決断をした。

「宝塚に向けて具体的に何かが動いていたわけではないので、普段の生活が変わったわけではなかったんですけど、そのあたりから『宝塚にスカウトされたらどうしよう』などと根拠のない妄想をしなくなりました。ちょっと大人になっちゃいました(笑)」

 夢をあきらめたことで、陸上で将来の道を切り開く覚悟が決まったというわけではなかったが、田中はさらに飛躍を遂げることになる。

 高校3年生になると、日本選手権ではシニアのトップハードラーと競り合って6位入賞。大本命として迎えたインターハイでは見事に連覇を果たし、その年は日本ジュニア選手権でも優勝を果たした。

 アジアジュニアやU20世界選手権といった世代別の日本代表の常連になり、国際舞台でも活躍した。しかし当時は、そんな活躍と自身の意識とのギャップに苦しんだこともあったという。

「インターハイから世界大会までを通して、すごさを理解していなかったんです。中学、高校と強豪校ではなかったですし、そこらへんで体操着を着て駆け回っている子だったので、そんな子が世界ユースやU20世界選手権がどうとか言われても、『へぇー』ってなるだけじゃないですか。自分の感覚はそっちでした。

 だから余計に、真剣に競技をしている人たちの温度感が怖かったんです。

それに、一緒に世界大会に行った選手たちはみんな明るくて、しかも強豪校の選手同士、仲がいいんですね。私は端っこのほうにいて、ストレスで鼻血を出していました。若い選手らしく、人間関係に苦労していた記憶があります」

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 そんな葛藤を抱えた時期もあったが、高校時代にトップハードラーへの道が開かれたと言っていい。

「高校の部活は......。そうですね。意地になってやっていた部活と言いますか、けっこうトゲトゲしていたと思います。『勝ちたい』というよりも『負けたくなかった』というか。"何か"と戦っていた気がしますね」

【女子大生の生活もエンジョイ】

 そして高校卒業後は、系列の関西大学には進学せずに、立命館大学に進んだ。高校までのライバルとも、別々の道を進むことになった。

「私は、普段はけっこう考え込むタイプなんですけど、大きな決断をする時は、大きければ大きいほど考えるのが面倒くさくて、直感で動いちゃうんです。このままずーっと(関大一高の最寄り駅)関大前駅で降りるのもアレやし、同じ環境でやるよりはちょっと変えてみたいと思って、違う進路を決めました。

 立命館大学には、初めてスポーツ推薦で入学しました。

高校までは一般で入っていたので、いつ陸上部を辞めてもよかったですし、記録が出なくてもよかった。でも、大学は陸上で進学したので、ちゃんとやらないとっていう気持ちが大きかったです。そこからはけっこう真面目に取り組むようになりました。

 それでも、大学4年間はもちろん陸上に真剣に取り組みつつも、陸上一色ではなく、ちゃんと女子大生としての生活も楽しみました。けっこうエンジョイしていたと思います」

 中学、高校、大学と、それぞれの年代でまったく異なる部活動ライフを送り、今の田中がいる。世界に挑戦し続ける田中にとって、そのどれもが欠かせないものだった。

<了>

【profile】
田中佑美(たなか・ゆみ)
1998年12月15日生まれ、大阪府出身。中学から100mハードルを始め、関西大学第一高校ではインターハイを連覇し、第9回世界ユース選手権に日本代表として出場する。立命館大学では関西インカレ4連覇、2019年には日本インカレ優勝。2021年4月より富士通に所属し、2022年の日本選手権で3位、2023年世界選手権(ブダペスト)日本代表、2023年のアジア大会で銅メダルを獲得する。パリ五輪では準決勝進出を果たす。

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