関節技の鬼 藤原喜明のプロレス人生(12)

(連載11:アントニオ猪木の失神KO負けに、藤原喜明は「あぁ、芝居してるな」 その後のクーデター事件も振り返った>>)

 プロレスラー藤原喜明はサラリーマンを経て、23歳で旗揚げ間もない新日本プロレスに入門。アントニオ猪木、カール・ゴッチの薫陶(くんとう)を受け、道場で関節技の技術を磨き、新日本プロレス最強伝説の礎を築いた。

 そんな藤原が激動の人生を振り返る連載の第12回は、1984年2・3"雪の札幌事件"とその後を語った。

【プロレス】藤原喜明が明かす、長州力を襲撃した"雪の札幌事件...の画像はこちら >>

【札幌でのドル箱カードで起きた事件】

 アントニオ猪木の失神KO負け、タイガーマスクの引退、クーデター......新日本プロレスにとって激震の1983年が明けた翌年の2月3日、札幌市中島体育センターで事件が起きた。
 
 その日、藤波辰巳(現・辰爾)と長州力によるWWFインターナショナルヘビー級選手権試合が行なわれた。1982年10月、長州が藤波に反逆したことから始まった因縁の一騎打ちは、古舘伊知郎アナウンサーが「名勝負数え唄」と絶賛するほどで、新日本の屋台骨を支えるドル箱カードになった。

 札幌で「藤波vs長州」が行なわれるのは初めて。さらに、およそ5カ月ぶりの対決だったこともあり、会場だけでなく、テレビ中継を観見るお茶の間のファンも最大級の期待と注目を寄せてふたりの入場を待っていた。

 事件が起きたのは、長州の入場でのこと。テーマソングの『パワーホール』が鳴り響くも、長州がリングに上ってこない。代わってカメラが捉えたのは、何者かが長州を襲撃する姿だった。

 血がにじ滲んだ包帯を頭に巻いた男が、バールのようなもので長州の顔面をたたき割り、何度も蹴りを放っていた。その男こそ、藤原だった。

 騒然とする会場。長州のセコンドを務めるアニマル浜口が、マイクを手に「誰だ、あれは!」と絶叫した。

 やがて、血だるまとなった長州がなんとかリングイン。対戦相手の藤波も黒のショートタイツ一枚でリングに突入し、長州に攻撃を加える。パニックとなったリングに、放送席で解説を務めていた審判部長の山本小鉄が登場した。

 長州と藤波が激しくもみ合うなか、維新軍の谷津嘉章、小林邦昭、寺西勇、さらに新日本の坂口征二、木村健吾(現・健悟)も事態の収拾を図ったが......試合を妨害された藤波は激高し、小鉄にボディスラムを見舞うと、タイツ姿のまま会場を去った。そして記者に対して、「こんな会社やめてやる」と言い放った。

【襲撃事件を指示したのは?】

 試合は当然、不成立。それが今も語り継がれる"雪の札幌事件"の顛末だ。"首謀者"である藤原は、なぜ長州を襲ったのか?

 「それは、だな......長州が俺の彼女を寝取とったからだ。フフフフ」

 そんなジョークをかましたところから一転、神妙な顔に戻り、切り出した。

「本当かどうか知らないけどな、俺が聞いたところによると、どうやら(藤波か長州の)どっちかがケガかなんかで、試合ができる状態じゃなかったんだよ。だから、『行け』って言われてやっただけの話。俺が勝手にやったら、一発でクビだよ」

 藤原に指示を出したのは誰なのか。

「俺は新日本プロレスのレスラーだ。

社長の命令には背けないわな。つまり、そういうことだよ」

 そんな事情など、会場にいた観客は知る由もない。ドル箱カードが台無しになり、札幌市中島体育センターは暴動が起きる寸前だった。新日本にとっても、今後の興行にマイナスの影響が懸念されたが、それは杞憂に終わった。

 前代未聞の襲撃事件を起こした藤原に注目が集まり、古舘アナウンサーは「テロリスト」の異名を名づけ、一気にスポットライトが当たることになった。マイナスが一瞬でプラスに変貌する、プロレスならではのダイナミズムだった。

 そして、1972年11月のデビュー以来、一貫して前座や中堅でリングを沸かせていた藤原が、メインイベンターに駆け上がった。それまで数回しか放送されてこなかった自分の試合が、毎週のようにゴールデンタイムで中継される。知名度も人気も格段にアップしたが、藤原の心境は変わったのだろうか。

「当時は人前に出るのが大嫌いだったから、メインだとか、そんなものに興味はなかったよ。俺は、飯が食えて、酒が飲めて、練習で好きな寝技ができれば天国なんだ」

 当時、テレビ中継が行なわれる試合では会場の照明が通常よりも明るかった。それについて藤原は「ライトがまぶしくて腹が立った......と言うのは冗談だけどな」とニヤリとしたあとに、こう続けた。

「俺は天狗になる男じゃない。第一試合だろうがメインイベントだろうが、やることと気構えは一緒だよ。俺は、何をやるにも一生懸命。こう見えて、けっこう真面目なんだよ」

【長州ら「維新軍団」との抗争】

 なぜ、藤原はひと夜でチャンスをつか掴めたのか。

「普段からコツコツやっていれば、たった1回でもチャンスをつか掴めるんだよ。逆に積み上げがないやつが花開いたって、アッという間にしぼむことになる。自分が好きな練習をコツコツやってたのが世間に認められた。それだけの話だよ。

 プロレスの世界でメインイベントに出続ける人は、みんなそうなんだ。俺は、本当の意味で結果が出るのは、何かを始めてから10年後、15年後だと思っている。それで成功するかもしれないし、廃れているかもしれないからな」

 メインイベンターとなった藤原は、長州ら「維新軍団」と真っ向から激突した。クライマックスは、雪の札幌事件から2カ月後、4月19日に蔵前国技館で行なわれた「新日正規軍vs維新軍 5対5柔道マッチ」だった。

 正規軍からは猪木、藤波、木村、高田伸彦(現・延彦)、そして藤原の5人。対する維新軍は長州、浜口、谷津、寺西、小林の5人。それぞれが先鋒から大将を務め、柔道の団体戦と同じ勝ち抜き戦で激突した。

 藤原は副将として参戦。浜口と激しくぶつかり合い、両者リングアウトに持ち込んだ。そうして迎えた大将戦、猪木が長州を破って正規軍が勝利した。

 藤原は、この時に対戦した浜口の実力を絶賛した。

「浜口さんは天才だった。あの人と対戦してあらためて思ったのは、人間が努力でできるようになることは少ししかないけど、やっぱり努力してるやつじゃないと花は開かないってことだな。浜口さんは、まさにそういう人だったよ。

 ただ、いくら努力しても埋もれてしまう人もいる。だから、俺もそうだけど浜口さんもラッキーではあったな。

何回も言ってると思うけど、メインイベンターは、努力家でもあり天才なんだ」

 一気にスターダムの階段を上った藤原。全国各地でメインイベンターを張り、人気も飛躍的に伸びたが、直後に重大な決断を下すことになる。それは、UWFへの移籍だった。

(敬称略)

つづく

【プロフィール】

藤原喜明(ふじわら・よしあき)

1949年4月27日生まれ、岩手県出身。1972年11月2日に23歳で新日本プロレスに入門し、その10日後に藤波辰巳戦でデビュー。カール・ゴッチに師事し、サブミッションレスリングに傾倒したことから「関節技の鬼」として知られる。1991年には藤原組を旗揚げ。現在も現役レスラーとして活躍するほか、俳優やナレーター、声優などでも活動している。陶芸、盆栽、イラストなど特技も多彩。

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