錦織圭という奇跡【第31回】
中尾公一の視点(1)

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「出場を予定しているすべての大会に出られるようにしてほしい」

 2012年末──。それが、トレーナーの中尾公一氏に課されたミッションだった。

 錦織圭は2012年シーズンを19位で終えている。同年1月の全豪オープンではベスト8に進出。10月のジャパンオープンを制し、実に4年半ぶりのツアータイトルも手にしていた。

 当時23歳の錦織が次に照準を合わせるのは、トップ10のみ。その日本人未踏の領域に至るには、ケガでの長期離脱なく戦える体が不可欠になる。

 そこで2013年シーズンからチームに招かれたのが、トレーナーの中尾氏だった。日本ナショナルチームの公式トレーナーも長く務めた中尾氏は、鍼灸師の資格を持ち、体の動かし方や姿勢などの細部にまで目が届く。その中尾氏に期待されたのは、予防と治療の双方から「シーズンを通して戦える体づくり」を担うことだった。

錦織圭を陰で支えた名トレーナーの証言「当時は体が後傾していた...の画像はこちら >>
「ランキングを上げるには、結局は試合数をこなさなくてはいけないんです」

 中尾氏が説明する。

「2012年の圭は、ランキング20位前後で足踏みが続いていたと思います。大きな大会でいいところまで勝ち上がるけれど、そこでケガで棄権したり、いいパフォーマンスが出せないことが多かった。

 あのレベルまで行くと、ランキングを上げるには、やはり試合数をこなさないと難しいんです。

そうなると、対処療法としてのケアも大事ですが、ツアー中のトレーニングも必要になってくる。シーズン中もトレーニングをしないと、やはりどこかで身体が壊れてしまうんです。

 当時、トレーニングはロビー(・オオハシ)が中心で見ていましたが、フル帯同ではないのでスポットになる。そういう意味ではやはり、トレーニングの絶対的な量が足りていない状態でした」

 テニスがほかのプロスポーツ競技と比べて特異なのは、オフシーズンが圧倒的に短い点だ。1月から11月まで引きも切らさず大会が続き、しかも開催地は世界中に点在する。1週間の大会期間中は、基本は連戦。負ければすぐに、次の試合会場へと移動する。

 それら移動と試合の合間を縫い、練習やトレーニングも必要。とはいえ、明日の予定もわからないのがテニス選手の日常である。その時々で優先順位を見極めるマネジメント能力も、トレーナーに求められる資質だ。

【重心のチェックはトレーナーの仕事】

 中尾氏はこう説明する。

「トレーニングといっても、ツアー中はファンクショナルトレーニングやコンディショニングが多くなります。

 いわゆる『トレーニング』とは、重いウェイトなどを使い、筋量を増やすことを目的とする。

対してコンディショニングは、体の動きのキレを上げるようなイメージ。ラダー・トレーニングなどが中心ですね。ファンクショナルトレーニングは、動きの効率を上げることを目的としたトレーニングなので、ウェイトは使いますが、重さは3kgや5kgくらい。

 トレーニングメニューは、クレー(赤土)や芝などコートの種類に応じても少し変わります。たとえばクレーコートでは、土の上をスライディングしながらボールを打つことが多い。そこで全仏オープン前には、スライドボードを使い、滑りながら体幹を鍛えるメニューなどを取り入れました。逆に芝は、足もとが滑るなかでちゃんと止まらないといけないので、やるべきことも変わってきます」

 そのように身体を鍛え、動きを磨くと同時に中尾氏が注力したのが、錦織が抱えていたひざの痛みの解消である。

「2012年当時の圭は左ひざに痛みを抱えていて、ひざにバンドを巻いていたと思います。それは、フォアハンドのフォロースルーの時に体が後傾していたためだったんです。そこで重心の位置を前方にし、フォアハンドを打ったあとにも体がうしろに倒れないようにしました。そうすることで、ひざへの負担が軽減したと思います。

 ラケットの振り方などの技術面は、コーチの領分なので自分が変えるということはしません。

でも重心の位置や下半身の使い方に関しては、トレーナーの仕事ですから。もちろん、コーチやほかのトレーナーとも情報共有しながら取り組んでいました。そのように重心を変えることで、ひざの痛みも徐々に薄れ、シーズン終盤ではほとんど消えていたはずです」

「これが2012年の1月。こちらが2013年10月......」と、中尾氏は錦織がフォアハンドを打つ動画をノートPCで再生する。ふたつを見比べれば、たしかに前者は打ったあとに体の軸がうしろに傾く。対して後者は打点が前方になっており、フォロースルー時も体幹がぶれずにバランスを崩すことがない。

【固定概念を壊したマイケル・チャン】

 地道なトレーニングを日々重ねることで、肩甲骨の位置など左右のバランスも確実によくなっていった。動きのひずみが少なくなれば、特定の身体の部位に負荷がかかることもなくなっていく。

 そのようなケガ予防を目的とした効率的な体の動きは、ボールを身体の前方でとらえ、結果的に球質も上がるという正の副産物ももたらした。

 マイケル・チャンが錦織の新コーチに就任したのは、まさにこの直後である。

 1989年に全仏オープンを制したチャンは、アジア系選手のパイオニアにして、テニス史にその名を刻むレジェンド。17歳3カ月でのグランドスラム優勝は、今も破られていない男子シングルス史上最年少記録だ。

 そのレジェンドが、錦織に伝えたことは一貫している。

ベースラインから下がらず、自ら相手に先んじて展開し、ラリーの主導権を握ること。特にクレーコートでの戦いに関しては、明確なビジョンがあった。

 当時のクレーコートでの基本戦術といえば、ベースラインの後方にポジションを取り、バウンドしたボールが落ちてきたところを、こすりあげるように打ってスピンをかける。『クレイ・キング』と呼ばれた若き日のラファエル・ナダル(スペイン)は、その戦法のフィールドにおける絶対王者だ。

 その固定観念を、チャンはまったく異なるメソッドで打ち砕いた。

「圭のチームに来て以来、マイケルは『もっと前に入って攻めろ』と言う。そのあたりの戦略や戦術性は、やはりすごかった。

 特に圭があれだけクレーで強くなったのは、完全にマイケルのおかげですね。マイケルは圭に『なんでベースラインのうしろに下がり、長いラリーを続ける必要がある? 前に詰め、アングル(角度)をつけてクロスに打てば、簡単にポイント取れるだろう』みたいな感じで言っていましたから」

 今でこそ多くの選手が実践する戦い方ではあるが、当時は画期的だった。もちろんそのような戦術を可能にするには、回転のかかった重いボールを跳ね際でとらえ、制御する技術や筋力が不可欠でもある。

【水面下で大きく成長した2013年】

 もし......である。もし、チャンのチーム合流が1年早かったとしたら、当時の錦織ではチャンの描いた青写真を体で表現できなかったかもしれない。

 ただ前述したように、錦織は2013年を通してフィジカル強化に努め、ひざのケガ予防の観点からも、ボールを前でとらえるようになっていた。そこにチャンの持ち込んだ戦略が、カチリと噛み合う。

 2014年5月、錦織はクレーコートのマドリードマスターズで準優勝。ついにトップ10の壁を突破する。そして9月の全米オープンでは、世界1位のノバク・ジョコビッチ(セルビア)を破り決勝進出を果たした。

 2013年シーズンを錦織は、世界ランキング17位で終える。

 数字だけ見れば、前年の19位と大差はない。ただ、抱えていたひざの痛みの解消や、シーズンを通して戦える体づくりなど、水面下では大きな成果を上げていた。

 2013年に錦織が出場したATPツアー大会数は20。それはシーズン開幕前に予定していたすべてのトーナメントに出たことを意味していた。

(つづく)

◆中尾公一の視点(2)>>全米OP準優勝の舞台裏「余った栄養補給ゼリーを必ず持ち帰って」


【profile】
中尾公一(なかお・こういち)
湘南工科大学を卒業後、フリーのシステムエンジニアを経てスポーツの世界へ転身。鍼灸マッサージ師の資格を取得し、バスケットボール卓球の実業団チームでトレーナーを歴任する。

2005年からテニス男子ナショナルチームのトレーナーを務め、ロンドン五輪にも帯同。2013年より6年間にわたって錦織圭の専属トレーナーとして全米オープン準優勝やリオ五輪銅メダル獲得の快挙を陰で支え続けた。現在はテニスのジュニア育成や大宮のコンディショニングスタジオで一般の方の健康を支えている。株式会社ABM代表。

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