この記事をまとめると
■「こうもり傘に4つのタイヤをつけたものを作れ」の指示のもとに開発されたシトロエン2CV■1948年に発表された2CVは高い評価を受け、販売台数を伸ばしていく
■2CVの乗り心地はシトロエンらしく、また実用性を追求した姿勢はミシュランに通じると感じる
ミシュランからきた副社長が開発を指示
シトロエンのヒストリックカーといえばDSとともにまず名前が挙がるだろう2CV。1948年に発表されてから40年以上作り続けられたこのベーシックカーは、1930年代半ば、当時の副社長ピエール・ブーランジェの「こうもり傘に4つのタイヤをつけたものを作れ」という名文句とともに開発が始まった。
じつはこのブーランジェ、少し前にミシュランからやってきた人だった。
ブーランジェはミシュランにいた時代から、安価で経済的な自動車を作りたいと考えていたことが、当時の記事にある。そしてシトロエンに来た直後、休暇で農村を訪れたとき、農民が手押し車に頼っていた光景を目にして、あの言葉が生まれたのだ。
ふたりのおとなと50kgのじゃがいもを載せて60km/hのスピードが出せ、100kmあたり5リッター(リッター20km)の燃費をマークし、悪路でもカゴに入れた卵が割れない快適な乗り心地を備え、女性でもラクに運転できる簡潔な操作系を持ちつつ、価格はDSの前任車トラクシオン・アヴァンの3分の1という内容まで指示したというから、開発責任者的な立場だったといっていいだろう。

ミシュランがシトロエンを救済した3年後には、ピエール・ミシュランが交通事故で亡くなってしまい、ブーランジェが社長に就任した。彼は1939年のパリモーターショーに、当時はTPV(「とても小さなクルマ」を表すフランス語の頭文字)と呼ばれていたこのベーシックカーを出品しようとしたが、第2次世界大戦の勃発で先延ばしになった。
40年にわたってフランス国民の”アシ”として活躍
しかし開発は続けられた。特筆すべきは、水冷だった水平対向2気筒エンジンを空冷に、軽量化のためにアルミを使っていた車体をスティールに改めたこと。戦後、人々の生活が困窮すると予想して、コストダウンを優先したのだ。
こうした経緯を経て1948年に発表された2CVは、簡素極まりないボディが「ブリキの缶詰」などと揶揄されたものの、想定ユーザーである地方の農民などからは高い評価を受け、販売台数を伸ばしていく。それに対応するように排気量拡大、装備の充実などが図られていった。

ただし、1960年代後半になると旧さが目立つようになる。そこでシトロエンは、ヘッドライトをフェンダーに埋め込み、ボディサイドに凹凸をつけるなど、自動車らしいデザインをもつディアーヌを送り出し、後継車に位置付けた。
ところがユーザーは、クラシックミニやフォルクスワーゲン・ビートルと同じように、2CVをオンリーワンの存在と考えており、モデルチェンジは不要と声を上げはじめた。
シトロエンはこの声にいち早く反応し、1970年に新設計エンジンを与えると、その後個性的なカラーの特別仕様車を次々に仕立てるようになった。クラシカルな2トーンのチャールストンはその代表といえよう。

僕は生産が終了した1990年頃から数年間愛車にしたあと、取材でも何度か2CVに乗っていて、フンワリした乗り心地はたしかにシトロエンそのものだけれど、演出に頼らず愚直に実用性を追求した姿勢はミシュランに通じるとも思っている。