近年、日本では大麻による検挙者数が増加傾向にある。
警察庁の統計によると、2024年中に、大麻により検挙された人数は6078人に上り、2015年の2101人から約3倍近く増加している。

大麻に関する議論を巡っては「非犯罪化し、刑事施設外での自主的な治療に専念すべき」といった意見や“合法化”を求める一部の声がある一方、芸能人や有名大学の学生による大麻事件が発生すると“センセーショナル”な報道も目立つ。
本連載では「大麻とは何か」や「日本国内での大麻を取り巻く環境」について、文化社会学と犯罪社会学の観点から大麻について調査・研究をする佛教大学准教授の山本奈生氏が解説。第3回は明治期の日本で、新規の珍品として売り出された「印度大麻煙草」について紹介する。(全6回)
※ この記事は山本奈生氏の書籍『大麻の社会学』(青弓社)より一部抜粋・構成。

「フランスの新発明」日本初の大麻煙草の新聞広告

文明開化の曙光とともに、かつて蘭学を修めた大井卜新(おおい・ぼくしん)は1876年から大阪で薬局店を営みはじめた。大井卜新は慶応期の和歌山藩士であり、オランダ軍軍医のヨハネス・ポンペ・ファン・メールデルフォールトに学び、維新後に大阪は平野町で開業したのである。
当地は近世から薬問屋街とされてきた道修町に隣接し、もう少しあとの時代では「大大阪」の中心地になる大都市の一等地だった。1912年に建設された「大大阪」の象徴的建築・大阪俱楽部は、彼の薬局位置からすれば徒歩圏内である。
しかし華々しい大阪黄金期の到来を待たずに彼は薬剤師から政界へと転身し、府会議員と衆議院議員(三重県選出の立憲政友会)、大阪電灯など実業界の監査役員を歴任する関西の名士として名を残すことになる。そしてこの公式的な彼の略歴に、「初めて大麻煙草の新聞広告を出した人物」であることを付け加えてもいい。
1882年の「朝日新聞」大阪版に出された「薬舗大井卜新」は、「印度大麻煙草」を「フランスの新発明」として大きく宣伝した。用途は「喘息に最も効果があり」、同時に「顔面神経痛や不眠症など」にも効くという触れ込みである。
同種の広告は1882年から95年までの間に合計22回の掲出があり、「印度大麻煙草」が彼の薬舗の「売り出し商品」だったことは間違いないだろう。

しかしこの期間、ほかの薬舗広告には「印度大麻」を宣伝するものはなく、少なくともこの明治期の期間に日本各地の薬局で大麻が処方されていたことを示す根拠はまったくない。
これはいわば新規の珍品だった。大井卜新はその後、政界・実業界に進出し、薬剤師としての経歴は19世紀末で終わっている。

「印度大麻」1932年まで公式薬剤目録に名を連ねる

これにかわって、東京で新たに「印度大麻煙草」を販売しはじめたのが小林謙三である。小林も大井と同様に蘭学の系譜にある人物で、適塾に学んだ門下生のなかでも一定の知名度を有する明治期の免許製剤士だった。
東京・神田は神保町に店を構え、1895年、すなわち大井卜新による最後の広告と同年から、小林の知新堂が「ぜんそくたばこ 印度大麻煙草」の広告を「読売新聞」に二度掲出した。
広告内容はより具体的であり、師匠である緒方惟準(おがた・これよし/近代医学の祖といわれる緒方洪庵(こうあん)の次男)の名前とともに「巻き煙草の如く吸う」として、「ぜんそくが即時全治」と謳っていた。
しかし大井とは異なり東京・神田での売り上げはそれほど振るわなかったのか定かではないが、広告は95年と96年に二回出されたきりである。
さらに「知新堂」の広告は、「煙草のように吸えない幼児」に向けた大麻シロップとして「たんせきぜんそく散」広告が1900年に出され、それで終わる。
小林謙三は薬学文献史として1883年以後に「日本薬局方(編注:医薬品の品質や純度、強度などについて一定の基準を定めたもので、現在は厚生労働大臣が薬事・食品衛生審議会の意見を聴き公示している)」の編纂委員を務め、同書の初版から第五局(1932年)までの間、「印度大麻」は公式薬剤目録に名を連ねることになった。
これ以後、大正期・昭和期の新聞広告に印度大麻煙草が登場することはなく、整理すれば近代日本では明治初期に、まず西は大阪で大井卜新の「朝日新聞」広告が多数出され、大井が薬剤師から政界に転身したあと、次は首都・東京に店を構える適塾系統の小林謙三が緒方惟準から伝授された「印度大麻煙草」を売り出したのである。

大多数には浸透せず…珍品妙薬だったか

これらはいずれも伝統的な東洋医学ではなく、明白に近代的な蘭学軍医や適塾の系譜を汲むものだった。明治期日本に残された「医療大麻」の痕跡は、文明開化の発明品、フランスからの舶来品だと宣伝されたものである。

印度大麻煙草の名称は小林謙三のはたらきによって「日本薬局方」に長くその名をとどめたが、しかしこれが実際どの程度処方され、また東京や大阪を除いた地方にまで波及したのかを示す根拠について、筆者は見つけることができなかった。
少なくとも新聞広告では、この二者以外に初期的な「医療大麻」を扱ったものはないといえるから、多くの薬局で「インド大麻エキス」などが処方されてきたアメリカと比較すれば、大多数の帝国日本家庭には浸透せず、ずっと小さく痕跡的に認められる珍品妙薬だったと推定していいだろう。


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