日本国憲法にはこう記されているが、実際、ひとりの子どもを公立小中学校に9年間通わせた際の保護者負担は数十万円に上る。
「隠れ教育費」とも呼ばれる、この“見えない支出”について、保護者が声をあげれば「子どもにかかるお金は親が払うのが当然」という言葉が飛んでくる。
しかし、「隠れ教育費」を支払うことは、本当に誰もが納得している事象なのか――。
この連載では、本来無償であるはずの義務教育において、実質的に保護者が負担している支出の実態に迫る。第4回では、制服、ジャージ、運動靴といった「学校指定品」をめぐる“おおいなる謎”をひも解く。(連載第1回はこちら/全5回)
※この記事は栁澤靖明氏・福嶋尚子氏による書籍『隠れ教育費 公立小中学校でかかるお金を徹底検証』(太郎次郎社エディタス)より一部抜粋・構成。
制服指定・服装指導の根拠と限界
日本の学校指定品の多さは尋常ではない。学校によっては、頭のてっぺんから足もとまで、身につけるものすべてが指定され、教育活動にあわせて1日のうちに、制服から体操着へ、体操着からジャージへ、というように学校指定品コスチュームを付けかえることもある。ここで、より根本的な疑問を抱く人もいるだろう。「学校はいったい何の権限で、生徒の見た目を画一化できるのだろう?」と。しかも、それが保護者に過剰な経済的負担を課すことにつながっているのだ。「学校はいったい何の権限で、こんなにも家庭の財布からお金を抜きとっていくのか」と、ひそかに思う保護者も少なくないのではないだろうか。
基本的には、制服や指定品の決定権限と、その購入・着用義務づけの権限は、校長を代表者とする学校側にある。戦後に確立された「学校の教育自治」の考え方にもとづき、各校の校長が教師の意見もふまえながら「わが校の制服」を決定し、その購入と着用などを子どもたちに求めていく、というのが一般的な手続きである。
しかしここで参考になるのが、「校則の拘束力」という(ダジャレのような)教育法学上の議論だ。
1970年代、管理主義的な教育の風潮が強まるなかで、男子全員に丸刈りを課したり、バイク免許取得を禁止したりするなどの校則が全国的に広まった。校則に違反した場合には、たとえば教師自身の手で生徒を丸刈りにするような懲戒(罰)がおこなわれる動きもみられた。
このときも、「なぜ学校は(また教師は)、校則を作ることができるのか」「なぜ学校は(教師は)、校則違反をした生徒に罰を課すことができるのか」ということが問題となった。
教師の教育をする権限という観点から、この「校則の拘束力」や「校則の範囲」について考えてみよう。たしかに教師は「教育をつかさどる」(学校教育法第37条)ことが職務とされており、生徒を教育し、また懲戒をする権限(学校教育法第11条)をもっている。服装や校則をきびしく守らせることは生活指導のうちという考え方をもっている人もいる。
「子どもや保護者の意向が無視されてよいわけでない」判例も
教師が担う教育活動には、おもに教科教育(つまり授業)と生活指導(主として授業以外の場面)の2つの領域がある。このうち生活指導においては教科教育以上に、多様な家庭で育った多様な子どもたちを相手に柔軟性をもっておこなわれる必要がある。中学生や高校生ともなれば自分自身の考えや価値観があり、それとは矛盾する教師の判断や校則を一律に強制することは、子どもの思想・良心の自由(憲法第19条)や、見た目や行動などのプライベートな事柄をみずから決定するという意味での自己決定権(憲法第13条)を侵害しかねない。
また、子ども自身だけでなく、保護者との関係性も重要である。教師の判断と保護者の判断がくい違った場合、その子どもに一番近いところで暮らし、その子を育てていく義務(民法第820条)をもつ保護者の判断が優先されるのが筋であろう。
こんな考え方から、生活指導の場面については、教師のもつ教育をする権限は、あくまで指導助言にとどまる、という学説もある。
それゆえに、いくら校則といえども、子どもの人権侵害におよぶような強い規制をあいまいな根拠で規定することは難しいし、校則違反だからといって、学校がその生徒に重い罰を課すことはもっと難しい。
通常よりも割高の制服や指定品を「中学生らしいから」というあいまいな理由で強制的に購入させ、成長期の子どもにワンサイズ上のものをまた購入させ、それを着てこないと「校則違反だ。家に帰って着替えてこい」というようなあり方は、そもそも疑問視されてよいだろう。
学校制服に関しては、こうしたことが判例でも述べられている(1989年7月19日東京高裁)。学校側に指定品の指定権限があるとはいえ、子どもや保護者の意向が無視されてよいわけでないし、その指定・校則から離脱する自由も認められる必要がある。
指定品が公教育への入り口をせばめてはいないか
学校指定品の購入・着用を義務づける校則は、じつは、学校教育の入り口で子どもたちをそこから排除する機能を果たす可能性が高い。それは、多種多様の指定品が学校には存在し、それを着用していないと学校の校門をくぐることすらできない、という意味だ。
入学前に大量の指定品を購入しなければ、わが子が入学できない。だから、無理をしてでも購入する――。
中学校の制服購入のために借金をしたことがきっかけで多重債務におちいり、無理心中を図った悲劇が現にある。価格の側面のみならず、購入プレッシャーも相当強いことがわかる。
ましてや、学校指定品のおおいなる謎のひとつであるが、その学校の校長も、教師も、子どもも、保護者も、だれも選んでいないのに、「それ」が絶対的な存在として君臨していることがままある。
何十年もまえの顔も知らない人たちが定めた学校指定品を、異動してきた教員たちは「これがこの学校の制服か」と金額も見ずに受け入れ、粛々と一律購入させ、購入・着用をしていない子どもに指導をおこなう。
また、子どもや保護者の側も、言われるがままに購入し、指導されるがままに着用する。「だれも『この制服がいい』と選んでいない」のに、である。
教師の教育する権限や「学校の教育自治」の考え方にもとづけば、校則の一環である学校指定品の指定・一律購入・一律着用のルールは、校長や教職員が明確にそのルールの必要性を説明でき、子どもや保護者が納得して受け入れる、というプロセスがなければなりたたない。
教師の教育する権限は子どもの成長発達に資することが目的であり、子どもやその第一義的な責任者である保護者の意見を無視して物事を強制できる権限ではないからだ。
「制服はいいけど、校章を入れる必要はないのでは」「無地の上ばきであればもっと安くなる。なぜライン入りのものにする必要があるのか」「指定品はなぜその店でしか購入できないのか」「そもそも登下校時の靴まで指定する必要があるのか」――このようにさまざまな「なぜ?」の答えを学校関係者で追求し、納得いく指定品はよいが、そうでないような指定品であれば、見直していく必要があるだろう。
ただし、そこでは多数決という方法で合意をとりつけてはならない。多数決という方法は、少数派の人権保障にはもっとも不向きな方法だからだ。たとえば、スカートをはきたくない女子生徒や、海パン1枚で水泳の授業を受けたくない男子生徒がいる。
また、9割の人は3000円のワイシャツを複数購入することができるかもしれないが、1割の人にはそれがきびしい。
制服を着ない自由、制服を選択する自由、制服を着る自由のいずれもが保障されれば、どの考えの人も行きやすい(生きやすい)学校となるだろう。
そのため、学校側は保護者や子どもたちの多様な意見や要望を把握しながら、機能性やデザイン、価格の視点のみならず、個性尊重や人権保障の観点からも総合的に検討し、必要なものを最低限の値段で指定すること、また購入ができない家庭の子どもには懲戒を課さないなどの配慮が求められる。
(#5に続く)