こうした薬物犯罪を専門に捜査する機関の一つに厚労省の麻薬取締部(旧麻薬取締官事務所)が存在する。
高濱良次(たかはま・よしつぐ)氏は1972年から2008年までの36年間、麻薬取締官、通称「マトリ」として現場一筋で薬物犯罪の捜査に当たり、現在はコメンテーターとして活動。複数の書籍も刊行している。
本連載では高濱氏が実際に経験した「薬物犯罪」や「マトリ」の内情を紹介。第3回は日本国内における薬物汚染の“始まり”について取り上げる。
※ この記事は高濱良次氏の書籍『マトリの独り言』(文芸社)より一部抜粋・構成。
ほぼ同時期に、二つの覚せい剤が誕生
日本における薬物汚染がいつ頃から始まったのか、皆さんはご存じでしょうか?かく言う私も、麻薬取締官になっていなければ、分からなかったと思います。日本の薬物汚染が始まったのは、第二次世界大戦が終わった直後からであります。その頃私はまだこの世に生も受けていないので、どのような状況であったのかは詳しく知る由もありません。
しかし麻薬取締官になったことで、研修を通じてその汚染の実態を詳細に教え込まれました。その最初の薬物というのが、今世間を騒がせている、皆様もよくご存知の覚せい剤であります。
この覚せい剤の歴史は古く、その誕生は明治時代までさかのぼりますが、その当時は乱用されてはいませんでした。
1888年(明治21年)、長井長義博士によりエフェドリンが発見されました。エフェドリンと言えば、今では風邪薬に入っている咳(せき)止め効果を有する生薬「麻黄(まおう)」の成分であります。
その時合成された覚せい剤は、フェニルメチルアミノプロパン(通称メタンフェタミン)であり、1951年(昭和26年)に制定された覚せい剤取締法第2条に指定されている二つのうちの一つであります。
もう一つは、フェニルアミノプロパン(通称アンフェタミン)であります。このアンフェタミンは、その1年前の1887年(明治20年)に、エデルモというドイツ人により合成されており、ほぼ同時期に二つの覚せい剤が誕生しました。
昭和16年から市販、軍隊でも採用
1938年(昭和13年)に、ドイツの製薬会社が目を覚ます作用、即ち覚せい作用や眠気防止、疲労回復の作用を発見し、医薬品としてドイツをはじめ各国で広く使用されるようになりました。面白い事例として、ドイツ軍が夜間飛行や夜間作戦の際の覚せい用や倦怠(けんたい)感を取り除く、いわゆる防倦用として広く用いたと言われております。
日本では、1941年(昭和16年)から、アンフェタミンは「ゼドリン」(武田薬品)や「アゴチン」(富山化学)等の商品名で、メタンフェタミンは、「ヒロポン」(大日本製薬)やホスピタン(参天製薬)等の商品名で、おのおの一般の医薬品として市販されるようになりました。
軍隊でもこれを採用し、航空や通信関係の軍人、深夜作業に従事する軍需工場の工員達に使用させていました。また特攻隊員には、出撃の際にヒロポンとお茶の粉末と混ぜた「特攻錠」と称される錠剤が配給され、神風特攻隊の勇猛心の糧とされたとも言われております。
ちなみにヒロポンというのはギリシャ語で「仕事を好む」という意味のヒロポノスに由来して名付けられました。
全国規模で浸透…錠剤での摂取から、注射一辺倒に
第二次世界大戦終結と同時に、旧日本軍が軍需品として製薬会社に保管させていた大量の覚せい剤メタンフェタミン(ヒロポン等)が一挙に民間に放出され、普通薬として「睡眠の除去と気力の充実」、「除倦覚せい剤」等のキャッチフレーズで大々的に広告宣伝され、安価で売り出されました。それに合わせて需要の拡大を見込んだ製薬会社も、一般大衆向けに覚せい剤の製造・販売を開始し、結果的に乱用を助長させることになりました。一時は覚せい剤を製造する製薬会社は20社に及んだとも言われております。
京浜や阪神地区に始まった覚せい剤の乱用は、年を追うごとに急激に増加していきました。当初は、大都市の作家、音楽家、ジャーナリスト、深夜作業に従事する人々、学生、芸能人など、不規則な生活を送っている人達の一部が、気つけや眠気を覚ますために使っていました。
その後、敗戦の混乱期の厳しい現実から逃避する手段として、快楽的欲求を満たす恰好の薬物として瞬く間に接客婦、売春婦、不良青少年、さらには飲食関係者などに蔓延(まんえん)しました。これは都会だけにとどまらず、漁村や農村へと全国規模で浸透し、異常な社会様相を呈するようになりました。
この覚せい剤の乱用は、使用を続けるうちに耐性ができて使用する量も増え、さらに効果の遅い錠剤では満足できなくなり、より即効性のある注射液が求められるようになっていきました。
その使われ方も、それまでの嚥下(えんげ)から皮下注射や静脈注射へと変化し、1950年(昭和25年)には、密売される覚せい剤は注射剤一辺倒になりました。
乱用による精神障害などの弊害が顕在化し、社会問題として大きくクローズアップされるようになり、乱用者の代名詞として日常会話の中でも「ポン中」という言葉が公然と使われるようになっていきました。
その現状を打破するために、1951年(昭和26年)に「覚せい剤取締法」を制定し、その後警察による徹底的な取締りと罰則強化などにより、1957年(昭和32年)には、覚せい剤犯罪の終息を見るに到っております。
漫才師や作家が覚せい剤の使用を告白
昭和20年代から昭和30年代にかけて、大阪を中心に爆発的人気を博した漫才師ミヤコ蝶々と南都雄二のコンビがいましたが、その相方であるミヤコ蝶々が自伝の中で、覚せい剤を使っていたことを告白しております。「戦後」と言えば思い出すのが、私の好きな無頼派作家坂口安吾がおります。彼は覚せい剤常習者で、ヒロポンを注射していましたが、『安吾巷談(こうだん)』という作品の中で「錠剤のほうがいい」とか、「覚せい剤を服用して仕事をするから眠れなくなり、酒や睡眠薬の力を借りて床についた」などと述べております。
このようにミヤコ蝶々や坂口安吾の覚せい剤使用は、今と違い、その当時はまだ合法で許された時代でありましたことに関しては、誤解を招かないように申し添えておきます。
「モロッコの辰」に訪れた悲劇
戦後の一時期、アウトロー社会を彩った愚連隊(ぐれんたい)の一人に「モロッコの辰(たつ)」こと出口辰夫という人物がおりました。彼は、後に稲川組の幹部となりますが、戦後の混乱期には横浜を舞台に活躍し、「横浜愚連隊四天王」の一人でありました。私が生まれた1947年(昭和22年)に懲役から戻って来ますと、派手に賭場を荒らし回り、その時出会った稲川会の稲川聖城会長に心服し、自ら若衆となりました。
が、その一方で酒を一滴も飲まなかったのに肺結核を患い、身体がむしばまれていきました。若い頃からヒロポンを常用し続けていたこともあり、これが病魔の進行に拍車をかけ、1955年(昭和30年)、32歳という若さで神奈川県横須賀市内においてひっそりと逝きました。
これも、ヒロポンが引き起こした悲劇の一つでありました。