昼は撮影や執筆活動にいそしむ傍ら、夜はバーを経営している武若雅哉(たけわか・まさや)氏。
武若氏はかつて、約10年間、陸上自衛官として数々の「災害派遣」に携わり、その後も軍事フォトライターとして自衛隊の活動を取材している。

本連載では災害派遣現場の実情を、武若氏自身の経験や取材を通じて紹介。第1回は2004年10月23日に発生し、68名が死亡した新潟県中越地震での災害派遣について取り上げる。
新潟県上越市に駐在し、重機等を用いて陣地の構築や被災地での復旧作業等を担当する第5施設群に所属していた武若氏は、震災当日の土曜日、朝から外出していたが地震の揺れと隊員からの電話を受け駐屯地に戻った。
当時21歳の1等陸士で、初めての災害派遣従事。
何をしたら良いのかわからない状態で準備を進める武若氏が先輩隊員から受けた「ウチらが出る場所じゃない」という衝撃の一言の“真意”や、部隊の出発決定後、“覚悟”を決めた瞬間とはーー。
※ この記事は武若雅哉氏の書籍『元自衛官が語る 災害派遣のリアル』(イカロス出版)より一部抜粋・構成。

大地震発生も…隊員の間で激しい温度差のワケ

駐屯地に到着すると、せわしなく動いている隊員と、そうでもない隊員がいた。その温度差が激しく、若輩者だった私はとまどって不審人物かのような挙動になった。
慌てて準備しようにも、何を準備したら良いのかわからない。とりあえず長期活動になりそうなので栄養補助食品や着替えなどをバッグに詰め込むが、これで準備が整ったといえるのかもわからない。
一人で黙々と準備をしていると、余震が駐屯地を襲った。テレビでは緊急特番が組まれ、最新の震度情報や被災地からの中継を繰り返し放送している。
そこでふとわれに返った私は、どこかに行っていた同室の先輩に「今、どうなっているのか」「何をすればいいのか」を聞いてみた。

すると、「まだ何もしなくて良いよ。ウチらが出る場所じゃない」
衝撃的な一言だった。まだ何も知らない私は、大地震が発生したらすぐに出動すると思い込んでいたからだ。
実は大災害が発生したとき、自衛隊の部隊はあらかじめ定められている受け持ち区域でのみの活動を基本としている。
今回の震源地は中越地方。私が所属していた部隊の担当区域は上越市内と非常に狭い範囲であった。このときの上越市内の最大震度は5弱。これは初動対処部隊(現ファスト・フォース)が出動し、被災地の偵察を行う基準になる震度だが、主力は動かず情報収集を進めるだけであった。
その間、同一駐屯地に所属する第2普通科連隊は着々と準備を進め、駐屯地内に車両の配列も完了していた。あとは出発の指示を待つだけである。

実戦にも通じる部隊運用

では、なぜこうも部隊によって温度差があるのか。その理由は、実戦にも通ずるものである。
たとえば、どこかの地域で戦闘が発生した場合、すべての部隊が同じ現場に集中してしまっては逆に身動きが取りづらくなるのだ。
また、戦力を集中したことによって、防衛の空白地域を作ってしまうこともある。
災害現場であっても同じだ。震源地付近の被害が大きいからといって、近傍駐屯地に所属するすべての部隊を派遣した場合、ほかの場所で災害が発生した場合に対処できなくなる。
つまり、部隊ごとに担当区域を決めておき、基本的には自分たちの場所は自分たちで守るというスタンスは、非常に合理的なのである。
特に土地勘がある地元部隊であれば、なおさらむやみに動き回るワケにはいかない。こうした直接的な災害現場の話だけではなく、遠方から支援に来てくれた部隊の受け入れも地元部隊の役割である。
支援部隊に対する糧食や宿泊、燃料給油などのいわばインフラ支援も、地元部隊の重要な役割なのだ。
こうしたときに活躍するのが駐屯地業務隊であるが、いかんせん人員に制限がある。そこで、まだ出発しない隊員を支援要員として業務隊に差し出すことで、遠方から来てくれた支援部隊に対するサポートを手厚くすることができる。
入隊から1年も経過していない新米隊員であった私にとって、初の災害派遣従事は駐屯地内で支援部隊の受け入れ準備であった。

高揚感に包まれつつも…初の派遣で覚えた一抹の不安

隣の部隊が続々と駐屯地を後に被災地へ向かうなか、淡々と支援部隊の受け入れを手伝っていると「明日出発する」との連絡を受けた。
連日のニュース映像でしか情報を収集することができず、悶々(もんもん)としていたのだが、ついに出発の合図を受け取ったのだ。
しかし、発災から数日が経過しているため、迅速さが求められる人命救助活動は山を越えていた。

そして、主な人命救助活動は普通科連隊が担当していたため、施設科(編注:部隊を支援するため、各種施設器材を使用し、障害の構成・処理、陣地の構築、渡河等の作業を行う、陸上自衛隊の職種の一つ。武若氏は施設科の隊員であった)部隊は重機を使用した道路啓開や給水支援に向かっていたのだ。
そこで、自分が何をやるのかと先輩に聞いてみたところ「給食支援」という言葉が返ってきた。
給食支援とは、避難所に滞在する被災者のための炊き出しで、1日3食の食事を準備し提供することだ。
支援内容はどうであれ、初めての災害派遣に不謹慎ながらワクワクする気持ちが溢(あふ)れてきたのも事実だ。
しかし、いったいどこに行くのだろうか。一人暮らしの経験があるため自分用の食事を作ったことはあるが、学校給食のような大人数の食事を作ったことはない。
炊事車の扱いにも不慣れだ。そんな自分が行って役に立つのだろうか。高揚感とともに一抹の不安もあった。
炊事車(野外炊具1号(改))を使用する様子(陸上自衛隊 広報チャンネルより) そうこうしているうちに、倉庫に集まるように指示があった。明治時代か大正時代からあるといわれている古い倉庫に集まると、活動期間中に必要な物資の準備が始まった。

炊事車を覆う屋根型天幕、自分たちが寝泊まりする業務用天幕、宿営用天幕もあるが、業務用天幕のほうが広くて使いやすい。数週間の活動を行うのであれば、天井の高い業務用天幕のほうが疲れも取れる。
そして季節柄、夜は冷え込むことが予想されたのでストーブも持っていく。このダルマストーブは非常に暖かい。火力を最大にすると暑いくらいだ。

売店に並ぶ大量の食品…長期派遣に必要なモノと覚悟

その他、必要な器材を準備して大型トラックに積み込むと、トラックはいったん指定されている駐車場へと戻っていった。
この日はこれ以上の作業はないため、駐屯地の売店に行って必要だと思うモノを買い込んだ。なにせ、市街地に行くものの、現地にあるコンビニやスーパーなどで買い出しを行うことはできない。
なぜならば、被災地の商店にあるモノは、被災者のためのモノで、われわれ自衛官のモノではないと聞かされていたからだ。
右ポケットに財布があるのを確認してから売店へと足を進めると、山積みになった大量のカップラーメンが置いてあった。数日前にはなかったのだが、災害派遣に行くということで多くの隊員が買い求めたのであろう。その在庫がなくなる勢いから、大量に仕入れたのだと思われる。

このほかにも大量の食品が陳列され、間に合わない商品は箱のまま置かれていた。そしてその箱ごと買っていく隊員もいた。
なるほど。長期派遣になるとこういうモノが必要になるのか。と、勉強になったほどである。
個人的にはウェットティッシュの需要が高いのだと感じた。そう、被災者向けの入浴支援は行うが、被災地で活動する自衛官向けの入浴施設はほぼないのだ。そのため、その日の作業が終わったらウェットティッシュで体を拭くのである。
衛生環境を良好に保つため、体を清潔にするのも自衛官の役割だが、寒空のなかで冷えたウェットティッシュで体を拭くだけと考えたとき、覚悟を決めた自分がいた。


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