障害をもつ子を抱えながら働くシングルマザーのユウコさん(仮名・50代女性)から、涙ながらに私の行政書士事務所に相談がありました。
「86歳の母が、施設で『水も飲ませてもらえない』と訴えています」
ユウコさんの家庭の事情は複雑でした。
父親は事業の失敗で多額の負債を残し、若くして他界。母のノリコさん(仮名)は夫の負債を背負い、貧困ゆえに家庭は離散状態。ユウコさん自身も両親の借金を背負わされ、苦しい思いをしたといいます。
子育てと仕事で忙しい生活を送っていたある日、「母親が余命いくばくもない」という一報を受け、数十年ぶりにノリコさんに再会しました。ノリコさんは年金保険料を払う余裕もないまま86歳になっており、全盲の状態で、生活保護を受けていました。
そして、ユウコさんは、ノリコさんが人生の最後に、入所する施設から虐待され搾取されるさま、役所がそれを放置するさまを、目の当たりにすることになりました。
本記事で紹介する話は衝撃的ですが、決してユウコさんたちだけの問題ではありません。今日も日本のどこかで、似たような事態が起きています。(行政書士・三木ひとみ)

施設の部屋に並ぶ「空のコップ」

私の行政書士事務所にユウコさんが送ってきた写真には、ノリコさんがどれほど水を求めていたかが、はっきりと刻まれていました。
ノリコさんは、生活保護を受けながら千葉県内の介護施設に入所していました。ほとんど視力を失い、歩行もままならない状態。長年疎遠だった娘・ユウコさんの顔が見えるのか見えないのか、かすかに涙を浮かべながら、何度も同じ言葉を繰り返します。
「ここでは、食事のときも水を飲ませてもらえないの」
ノリコさんは、娘の手を握りしめながら、何度も同じ言葉を繰り返しました。
その声は弱々しくも必死でした。
ユウコさんは施設を訪れるたび、母のためにペットボトルの飲料を持参しました。しかし、次に行くと、必ず飲み物は片付けられているのです。ノリコさんの部屋には、空のコップだけが残っていました。
「施設で用意された水は、母の手の届かない棚の上に置かれていたんです」
ユウコさんが何度訴えても、施設は『糖尿病だから水分は控えるようにしている』と繰り返すだけで、主治医の指示には耳を貸しませんでした。面会に行くたび、ノリコさんは喉の渇きを訴え、ユウコさんが水を差し出すと一気に飲み干します。
さらに、施設では歯磨きの支援もなく、目の見えないノリコさんは粘着剤を歯磨き粉と誤用しかけたこともありました。誤飲すれば命を落とす可能性さえあったのです。

施設転居の申請直後に起きた「院内感染」

ユウコさんは、ノリコさんが生活保護を受給している東京都の某区内の福祉事務所(※)に対し、施設での介護虐待を理由とした、施設転居費用の支給申請を行いました。
※2025年4月から、介護施設入所者は、施設所在地ではなく入所前の居住地の福祉事務所が管轄する「住所地特例」制度に変更されています
高齢のノリコさんが「水も飲ませてもらえない」と訴える動画も、証拠として提出しました。
その直後、ノリコさんの施設で院内感染が発生しました。施設からは、感染防止のため施設での受け入れ拒否と、自宅待機を求められます。ユウコさんは、日中は仕事があり、障害児の子育ても抱えているため、自宅での介護は到底できません。

途方に暮れたユウコさんは、勤務先に相談しました。すると、長年のユウコさんの真面目な勤務態度も相まって即座に状況を理解した会社は、思いがけない提案をしてくれます。
「会社が倉庫として借りている賃貸物件の一室を、お母さんの仮住まいとして使ってください」
ユウコさんは振り返ります。
「職場の皆さんの思いやりがなければ、母は本当に行き場を失っていました」
こうしてノリコさんは、会社の倉庫の一室で、新たな施設に移れる日を待つ生活を送ることになりました。
私は、高齢者の命がかかっている重大な人権問題と捉え、福祉事務所止まりにならないよう、東京都生活援護課にも同じ書面を提出し、さらに口頭でも詳しく事情を説明していました。
その結果、福祉事務所からユウコさんに、転居を希望する施設の費用明細を出すよう要請がありました。
ユウコさんは少し安堵し、ケースワーカーとも相談しながら、ノリコさんが安心して余生を過ごせる施設を探し、候補の施設資料を提出。行政書士も「ここまで進めば、あとは費用支給を待つだけです」とユウコさんを励ましました。
しかし、想定外のことが起こりました。

施設側の主張だけで「虐待なし」とされた現実

2週間後の8月18日、ユウコさんのもとに、施設転居費用支給の申請を「却下」する通知が届きました。
福祉事務所は、施設側の「虐待はない」という主張を根拠に、ノリコさん本人や主治医への聞き取りも行わないまま、申請を却下したのです。
ユウコさんは、行政の判断に強い疑問を抱きました。
「信じられません。
私は、高齢の目の見えない母が『飲み物を飲ませてもらえない』と訴える動画まで撮って提出しました。面会のたびに、室内に飲み物がないことを私自身も確認しています。それなのに、虐待はないとされたんです」
「インターネットで調べても、高齢者はこまめに水分を摂らないといけない、そうでないと2日で意識不明になることもあると出てきます。主治医からも水分不足を心配されています。
なのに役所は、主治医に一切の聞き取りもしないまま、『糖尿病だから水分摂取は控えるべき』という医療資格のない施設長の言い分をうのみにしたんです」

水さえ飲ませない施設に、母を戻すことはできない

ユウコさんから私に、切実なメールが何度も送られてきました。
「今の施設に戻すということは、殺人未遂をした者の元へ戻す、ということです。私は人間として、それはできません」
「殺人未遂」とは穏やかではありません。どういうことなのか。
ユウコさんの説明によれば、入所前、施設からは「面会は自由で、外出もできる、家族が来れば宿泊もできる」との案内がされていました。ユウコさんは、仕事以外の時間は可能な限りノリコさんの傍にいてあげたいと願っていたので、それらの条件はうってつけでした。
また、施設長は「早くサインしないと空きが埋まりますよ」とすすめてきました。
ユウコさんはその言葉を善意からのものと信じ、急いで手続きを済ませたのです。
ところが、ノリコさんが入所した途端、施設長や職員の態度が一変します。

以下の点については、入所前と入所後で話がまったく違いました。
  • 面会は1回30分まで
  • 外出するには、主治医(月に2回しか訪れない)の事前許可が必要
さらに、前述のように、水さえ飲ませてもらえない上、点滴も受けられません。
ユウコさんとノリコさんにとって、あまりに大きな落差でした。

缶ジュースすら奪われる母

また、ほぼ全盲のノリコさんが、自室で壁づたいに歩き、やっとの思いで缶ジュース(ユウコさんがノリコさんのために持ってきて置いたもの)を手に取り、開けて飲もうとしたときのこと。
それを見つけた施設側がケースワーカーに連絡し、缶ジュースを撤去するよう求めました。
私はユウコさんからその話を聞き、ケースワーカーに電話して尋ねました。
「主治医から『水分補給も点滴も不要』と確認したのですか?」
返答はこうでした。
「医師には確認していません」
さらに、ケースワーカーは、ユウコさんにこう説明しました。
「施設が水分を与えないというのは、娘さんの誤解です。施設は、お母さんが糖尿病だから水分を与えられないと言っているんです」
医療資格のないケースワーカーの発言に、ユウコさんは反論します。
「主治医からは『食事もほとんど摂れず栄養失調ぎみだから、食べたいもの飲みたいものを与えるように』と指示されています」
それでも、役所は主治医への確認を行いませんでした。

その他にも“不可解な扱い”が多数

また、施設からは「必要な物品を揃えてほしい」と求められ、ユウコさんはノリコさんのために冷蔵庫まで購入、設置しました。
しかし、その直後、施設長は役所にこう通報したのです。
「家族から経済援助があるので、保護廃止すべきです」
また、ケースワーカーからは衝撃的な要求が続きました。

「娘さんから経済援助があるので、食事は1日2回までしか支給しません」
ユウコさんは唖然としました。
ケースワーカーの信じがたい発言は他にもあります。
「亡くなっても連絡しません」
「この部屋は物品が豊かなので、家族が扶養できるのでは?」
「散髪代や不足分の食費は家族が払ってください」
「共同墓地に入れるので心配はいりません」
ケースワーカーからは、昨今社会問題になっている「施設紹介会社」を押し付けられたこともありました。
「自然に寿命を迎えることは受け入れられます。でも、母を殺さないでほしい」
ユウコさんは私にそう訴え続けていました。

「母の命が尽きる前に…」再申請に懸けた願い

ここまでの事実を知ったら、娘のユウコさんでなくとも、断じてノリコさんを元の施設に戻すわけにはいかないと思うでしょう。
前述の、施設転居費用の支給申請が却下された翌日の8月19日の朝、ユウコさんは再び福祉事務所に再申請書を提出しました。
書面には、初回の申請からの経緯と、母を守るための切実な思いを記しました。
「わずか2週間で、重大な介護虐待が絡む施設移転費の支給申請を却下されたことに、ただただ驚愕しています。人命を優先しない対応に、疑問しかありません」
ずさんな衛生環境や介護虐待が続く施設に母を戻すのではなく、安心して暮らせる新しい施設で余生を過ごさせたいと、福祉事務所に転居希望先の資料も提出していました。
生活保護制度において、引越し費用の支給は正当な理由があれば認められています。
ノリコさんのケースは「病気療養上著しく環境条件が悪いと認められる場合」に該当し、当然、引越費用が支給されるはずでした。
それなのに、施設内感染の影響で自宅待機を命じられ、施設に戻ることが禁じられた状態で、別の施設への転居費用が出ないのは、不当かつ不可解な扱いといわざるを得ません。

しかも、前述のように、ユウコさんの自宅での介護は到底できない状態なので、ノリコさんはユウコさんの職場の倉庫の一室で寝泊まりすることを余儀なくされています。
「高齢で余命宣告を受けた母が、こんな環境で過ごさなければならないなんて、人権侵害そのものです」
ところが、再申請を行ってから2日後の8月21日、悲劇は起こりました。
ユウコさんが朝に出勤し、職場の倉庫の一室で一人寝泊まりしていたノリコさんの様子を見に行ったところ、ノリコさんは「苦しい、苦しい」と訴えていました。救急搬送され、そのまま入院となりました。

「生きていていいんだよ」と制度が言える日は

施設と役所によるノリコさんに対する不可解な扱いの背景には一体どのような事情があるのか。私とユウコさんとで何度かやりとりしたことがあります。
生活保護受給者が施設に入所する際、施設に支払われるまとまった額の「初期費用」など、「お金」にまつわるさまざまな「事情」が考えられますが、ここでは詳細には立ち入りません。
しかし、これだけははっきりしています。「国民の命のとりで」であるはずの生活保護行政は、ただ機械的に書類を処理するのではなく、「命」と正面から向き合う責任があります。
ユウコさんの「せめて、母には喉の渇きに苦しまない場所で最期を迎えてほしい」「人間として、母に最低限の暮らしをさせてあげたい」という願いは、施設にも、行政にも、受け止めてもらえませんでした。
救急搬送されたノリコさんは、今も入院生活を送っています。癌を抱え、残された時間もわずかです。ノリコさんが経験した異常な扱いを「虐待ではない」と片づけることが許される社会に、未来はありません。


■三木ひとみ
行政書士(行政書士法人ひとみ綜合法務事務所)。官公庁に提出した書類に係る許認可等に関する不服申立ての手続について代理権を持つ「特定行政書士」として、これまでに全国で1万件を超える生活保護申請サポートを行う。著書に「わたし生活保護を受けられますか(2024年改訂版)」(ペンコム)がある。


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