近年、「大麻」や「麻薬」など違法薬物が若年層を中心に広がっており、厚生労働省のデータによると、2024年の薬物事犯全体の検挙人員は1万4040人と、前年(1万3815人)を上回る結果となった。
こうした薬物犯罪を専門に捜査する機関の一つに厚労省の麻薬取締部(旧麻薬取締官事務所)が存在する。

高濱良次(たかはま・よしつぐ)氏は1972年から2008年までの36年間、麻薬取締官、通称「マトリ」として現場一筋で薬物犯罪の捜査に当たり、現在はコメンテーターとして活動。複数の書籍も刊行している。
本連載では高濱氏が実際に経験した「薬物犯罪」や「マトリ」の内情を紹介。最終回は昭和の時代、爆発的な蔓延には至らなかったものの、毎年1500人から2000人程度が検挙されていたヘロイン横行の実態について取り上げる。
※ この記事は高濱良次氏の書籍『マトリの独り言』(文芸社)より一部抜粋・構成。

「ヒロポン」撲滅後に登場した「ヘロイン」

覚せい剤や大麻と同じように一時期乱用された歴史を持つ薬物があります。覚せい剤などとは違い、爆発的な蔓延(まんえん)を見せずに終息に至った経緯がある薬物であります。
それは、「麻薬及び向精神薬取締法」で禁止されている「ヘロイン」であります。この薬物が出回ったのは私が小学生から高校生に至る過程の10代頃の話であり(編注:高濱氏は1947年生まれ)、そんなことがあったこと自体、全く記憶にありません。研修を通じて知り得た知識に基づき、その経緯をここで説明していきたいと思います。
戦後の日本では、中国人や朝鮮人が闇社会に台頭してきて、密輸されたヘロインが阪神地区を中心に各地に流れ、特に大都会では彼達の手による闇市場が形成されていきました。
1949年(昭和24年)頃までは、当時のヒロポンと同じく、大部分は国内に隠退蔵されていたものでありましたが、これも底を尽き、海外から密輸入されるようになり、1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争を契機として密輸や密売事犯が急増し、中国産ヘロインの香港経由の密輸事犯がより顕著になっていきました。
朝鮮半島への出兵のための在日基地では、主に米軍を中心とした国連軍兵士で溢(あふ)れかえり、基地周辺はさながら終戦直後の様相を呈し、これら兵士の薬物乱用が接触する日本の人々に伝播(でんぱ)し、基地周辺から都市部の歓楽街へと拡散していったのです。

都市部におけるヘロイン密売の主役は、日本在住の中国人や朝鮮人となり、彼らがヘロインの密輸入に大きな役割を果たすようになっていきました。
この当時は、ヒロポン乱用の陰に隠れて目立ちませんでしたが、1945年(昭和20年)半ば辺りから、毎年1500人から2000人程度の検挙者を摘発するようになりました。

中国人の密輸集団と暴力団が結託

麻薬取締官事務所設立当時のGHQの取締り方針は、専らこのヘロイン事犯摘発でありました。
1955年(昭和30年)に入ると、ヘロイン密売による莫大(ばくだい)な利益を見込み、暴力団がこれに積極的に進出するようになりました。その結果、神戸の洪盛貿易公司と神戸五島組に見られるように、中国人の密輸集団と暴力団組織が結託し、密輸や密売犯罪が活性化しました。
神戸や横浜と大都市を結ぶ取引が盛んになり、東京、横浜、大阪、神戸、福岡などの大都市をはじめ、在日米軍基地周辺などでは日本人や外国人による密売買や乱用が横行しました。

「死の十三階段」を経て中毒者の手元に…

1955年(昭和30年)から1962年(昭和37年)までのこの時期は、「ヘロイン横行時代」と呼ばれた時期であります。この昭和30年代前半、中国人麻薬密輸団が暗躍して外国船舶の中国人船員による香港からのヘロイン密輸事犯が頻発したほか、中国人による米軍人や軍用機を利用したヘロイン密輸も見られるようになりました。
麻薬禍濃厚地域の港湾や空港に密輸されたヘロインは、国外におけるケシ密栽培地における密造に始まり、その後の密輸出、密輸入、運搬、元卸、中卸、小卸など何人もの大小密売人の手を経て、末端の中毒者の手元に届くという複雑・多岐にわたる経路があり、当時捜査関係者の間では「死の十三階段」と称されました。
末端の中毒者の段階では、ヘロインはすでに小分けや混ぜ物で加工されており、その混ぜ物には2種類ありました。
一つはヘロインの含有量が少ないのをごまかすためや、ヘロインの作用を強めるために、ヘロインと同じ苦味がある硫酸キニーネや塩酸キニーネを加えたり、カフェインや局所麻酔薬の塩酸プロカインが使われたりしました。
もう一つは、単に増量するためで、もっとも多かったのはブドウ糖で、次にショ糖、乳糖が利用されました。
当時スリの親分が、手下とのつながりを維持するために手下を麻薬中毒者にして逃走を防いだ、あるいは売春婦のヒモが、売春婦を麻薬中毒者にして足を洗えなくしたという逸話まで残っております。

かつては“組の御法度”も…戦後の価値判断がヤクザ社会にも変化もたらす

わが国に運び込まれるヘロインの仕出地の多くは香港でありました。「黄金の三角地帯」と呼ばれるラオス、タイ、ビルマ(現在ミャンマー)に跨(またが)る山岳地帯で栽培されているケシから採取されたあへんが、タイの首都バンコクを経由して香港に密輸入され、日本やアメリカなどに運ばれました。
このことからも分かるように、香港には強大な麻薬シンジケートが存在しておりました。
この昭和30年代のヘロイン事犯蔓延の特徴は二つあると考えられます。
一つ目は、暴力団組織の密売への参入であります。この頃になると世相は徐々に豊かさを取り戻し、生活を楽しむ風潮が広がったことと相まって、ヘロイン密売による利益の莫大さに着目した暴力団が、自己の組織を利用して積極的に参入し、大都市を中心とした組織的密売網を張り巡らしたことにあります。
その昔ヤクザは、東映の任俠(にんきょう)映画でも見られるように仁義を重んじ、素人衆には迷惑をかけないというスタンスがあり、まして薬物に手を出すことは“組の御法度”とされていましたが、金のためには手段を選ばないという戦後の価値判断の変化がヤクザ社会にも及び、その結果、麻薬市場を暴力団が独占することによって急速に拡大していきました。
この傾向は、1970年(昭和45年)頃から覚せい剤事犯が復活の兆しを見せ始めた際にも常態的に見られるようになり、現在に至っております。

駐留軍引き揚げでヘロイン事犯激減

二つ目は、駐留軍の撤退であります。大都市におけるヘロイン需要の開拓は比較的容易に行われましたが、地方の中小都市では需要はさほど深く浸透せず、ヘロインなどの薬物需要の中心はあくまでも駐留軍の外国人でありました。
1952年(昭和27年)、「サンフランシスコ講和条約」の発効に伴い、駐留軍の引き揚げが行われました。たとえば東北地方について見ると、駐留軍の駐屯地である宮城県仙台市青森県三沢市などにおいてヘロイン事犯が多発していましたが、1956年(昭和31年)以降、激減するようになりました。
結局ヘロインはヒロポンと違い爆発的に蔓延することなく、終息に至った。その背景には、アメリカ合衆国と日本の国情の違いがある。

アメリカ軍の兵士にとっては、戦争という環境下で死に直面し、想像絶する恐怖心から逃れるために乱用され、その後主流となっていきました。
一方日本と言えば、快楽を求めてヘロインに手を出す輩が出現するようになりましたが、薬が切れた時の禁断症状の苦しみには耐えがたいものがあるうえに、日本人特有の勤勉さという面からは、相容れない物があることに気付き始め、徹底した操作も影響し、年々徐々に乱用者は激減してきました。
作用面から言えば、覚せい剤は「動」に対して、ヘロインは「静」にあたり、全く真逆の薬物であっただけに、その乱用の度合には大きな違いが見られるという皮肉な減少が生じました。


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