「恩赦」とは、国家が確定した有罪判決や刑罰の効力を例外的に軽減・免除・消滅させる制度で、内閣が決定し天皇が国事行為として認証する行政措置である。内容は「大赦」「特赦」「減刑」「刑の執行免除」「復権」に区分される。

たとえば1952年には、サンフランシスコ平和条約の発効に合わせた恩赦があった。映画『仁義なき戦い』(1973年公開)では、菅原文太演じる服役中の主人公が、この恩赦によって予定より早く“塀の中”から出てくる描写がある。現段階で最新の大規模な恩赦は、2019年10月22日の「令和の即位礼正殿の儀」に伴うもので、約55万人が復権などの対象になった。
1984年に北海道夕張市で発生した「夕張保険金殺人事件」は、炭鉱作業員宿舎の火災で7人が犠牲となった放火殺人事件である。首謀者とされた経営者夫妻は死刑判決を受け、それぞれがいったん控訴したものの、どちらも取り下げた。昭和天皇の崩御に伴う恩赦を期待したためである。
しかし、その目論見(もくろみ)は外れた。本稿では、この事件の概要と、戦後初となる夫婦同時死刑執行に至るまでの流れを追っていく。(本文:ミゾロギ・ダイスケ)

作業員宿舎火災――経営者に1億3800万円の保険金

1984年5月5日22時50分ごろ、北海道夕張市にあった炭鉱作業員斡旋(あっせん)会社の作業員宿舎から出火し、隣接する旅館ともども全焼した。
この日、宿舎では新人作業員を歓迎する宴会が行われており、火災発生時には酒を飲んだ作業員たちはすでに就寝していた。火災により男性作業員4人と宿舎管理人の長女(12歳)・長男(11歳)、さらに消火活動中の男性消防士1人が死亡した。加えて、男性作業員A(当時24歳)が2階から飛び降り、両脚を骨折する重傷を負った。
警察と消防局の現場検証では、火元は1階食堂付近とされ、焼肉用電熱プレートか石油ストーブの不始末が発火要因と判断された。
当初、メディアはこの悲劇を“痛ましい事故”として報じていた。なお、宿舎には火災保険が、作業員4人には生命保険が掛けられていたため、作業員斡旋会社を経営するH夫妻にはあわせて約1億3800万円の保険金が支払われた。

両脚骨折した放火犯が「自首」で明かした恐ろしい真相

火災から3か月後の8月15日、警察に1本の電話がかかってきた。発信者は、火災現場から脱出する際に両脚を骨折したAだった。実はその1か月前、Aは入院先の病院から姿を消していた。電話口のAは「夕張の火災のことで話したい」と明かし、青森署にて放火を自供した。
供述によれば、AはH夫妻から保険金詐取を目的に放火を指示され、新人作業員として宿舎に潜り込み、住人が寝静まったのを確認してから火を放ったという。2階で眠っていた子ども2人を助けようとしたが、火の回りが早すぎて断念。自らは窓から飛び降りて重傷を負った。
そして、H夫妻から支払われたのは、当初約束されていた報酬500万円にはほど遠い少額にとどまったとされる。
放火殺人という大罪を犯し、約束の金も払われず、両脚を骨折したAの心は穏やかではいられなかっただろう。やがてH夫妻への不信と、“口封じのために始末されかねない”という恐怖が募り、逃げ出したのだ。
そして津軽海峡を渡り、青森から警察に電話をかけたのだ。
8月19日、H夫妻は逮捕された。2人が多額の保険金を手にしていたことから、警察はもともと保険金殺人の疑いを抱いていたという報道もあった。

H夫妻の経歴と私利私欲からの蛮行

逮捕されたH夫妻のうち、夫のY・H(逮捕当時41歳)は反社会勢力の組長であり、妻のN・H(逮捕当時38歳)は仕事の上でもパートナーだった。
2人は1970年ごろ、三菱大夕張炭鉱の下請会社を設立し、炭鉱作業員の斡旋業を始めた。また、反社会勢力Zの下部組織を結成し、金融業や飲食店経営にも手を広げたとされる。夫のY・Hは暴力事件などで服役を重ね、実務は妻のN・Hが取り仕切ることが多かった。
H夫妻がさらなる暴走を始めるきっかけとなったのは、夫が服役中だった1981年10月に発生した「北炭夕張新炭鉱ガス突出事故」である。これは「北炭夕張炭鉱株式会社」が経営する夕張新炭鉱で発生したガス突出・坑内火災事故で、最終的な死者数は93人にのぼる大惨事だった。
この事故で、H夫妻の会社から現場に手配していた作業員7人が死亡。作業員らに掛けられていた約1億3000万円の死亡保険金が振り込まれ、一部は遺族に支払われたものの、多額の現金が夫妻の手元に残った。
夫の出所後、夫妻は夕張市内に豪華な自宅を新築し、高級外国車を購入。そのほか贅沢三昧の暮らしを始めたと伝えられる。このような浪費をしていれば、大金はあっという間に溶けてしまう。
さらに炭鉱衰退の影響で本業の経営も悪化していった。
困窮したH夫妻は、新規事業(デートクラブ経営)を計画し、その資金を作るために、放火による保険金殺人という悪魔の計画に傾いていった。なお、管理人の子ども2人には保険は掛けられていなかった。

「類例をみない凶悪、重大な事犯」

「目的は火災保険金だけであり、作業員の命を奪う意図はなかった。『逃げられるようにやれ』とAに指示したのに、Aが従わなかった」
札幌地方裁判所の一審で、Y・Hはこのような旨を主張して殺意を否定した。これに対し検察は、“殺意はあった”として死刑を求刑した。
1987年3月、札幌地裁はH夫妻について「確定的殺意は認められないものの、未必的殺意が認められる」「わが国犯罪史上、類例をみない凶悪、重大な事犯である」として夫婦ともに死刑判決を言い渡した。実行犯のAは自首により事件解明に寄与したとして無期懲役。Aは控訴しなかった。
H夫妻は札幌高裁に控訴したが、1988年10月に控訴を取り下げ、刑が確定した。1988年10月15日の読売新聞朝刊には、「取り下げは、本人たちが親族に相談し、真剣に考えた末の結論だと思う」という主任弁護士のコメントが掲載されている。
だが、実際には贖罪(しょくざい)の念から刑を受け入れたのではなかった。2人の被告人は「恩赦」を狙ったのである。

1988年の秋、昭和天皇の深刻な健康状態の悪化が連日報道され、世の中には“昭和の終わりが近づいているのかもしれない”という空気が漂っていた。
H夫妻はある意味でこれを見越して動いた。つまり、昭和天皇が崩御すれば「恩赦」が行われ、自らも減刑されると考えたのである。恩赦は原則として刑が確定した者が対象となるため、確定を急ぐ必要があった。なお、当時は他にも同様の例が複数存在した。

昭和天皇崩御も2人に恩赦はなし、戦後初の夫婦同時死刑執行へ

1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、昭和天皇が崩御し、激動の昭和が幕を閉じた。新元号は「平成」と発表された。しかし、この出来事に際して懲役・禁錮受刑者や死刑囚に対する恩赦は実施されなかった。
当時の報道によると夫のY・Hは、「死刑判決後、精神的に不安定となった状態で、法律知識もないまま恩赦があると誤認していた」と主張し、1996年5月に札幌高裁へ控訴審の再開を申し立てた。
しかし、この申し立ては却下され、最高裁への特別抗告(※)も棄却された。そして1997年8月1日、札幌刑務所の刑場で2人の死刑が執行された。夫婦同時の死刑執行は戦後初であり、女性死刑囚の執行は27年ぶり、戦後3例目だった。

※高等裁判所が出した決定・命令に不服がある場合、憲法違反や判例違反を理由として行われる(刑事訴訟法433条)
■ミゾロギ・ダイスケ
昭和文化研究家、ライター、編集者。スタジオ・ソラリス代表。大学の文学部を卒業。スポーツ雑誌、航空会社機内誌の編集者を経て独立。『週刊大衆』をはじめ、各媒体で執筆活動を続ける。犯罪、芸能全般、スポーツ全般、日本映画、スキー、プロレスなどを守備範囲とするが、特に昭和文化研究はライフワークだ。著書に『未解決事件の戦後史』(双葉社)。


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