昼は撮影や執筆活動にいそしむ傍ら、夜はバーを経営している武若雅哉(たけわか・まさや)氏。
武若氏はかつて、約10年間、陸上自衛官として数々の「災害派遣」に携わり、その後も軍事フォトライターとして自衛隊の活動を取材している。

本連載では災害派遣現場の実情を、武若氏自身の経験や取材を通じて紹介。第4回は2011年3月11日に発生した東日本大震災での経験について取り上げる。
未曾有の大震災が発生し、新潟県上越市の高田駐屯地で出動命令を待つ武若氏。「自衛官であっても、この状態では手出しはできない」と無力感を感じる中、翌朝、長野県北部でも大きな地震が発生した。
「慌てても仕方ないが、落ち着かない」という状況下で、部隊の派遣決定後、武若氏が上官から「お前は行かない」と告げられた理由とはーー。
※この記事は武若雅哉氏の書籍『元自衛官が語る 災害派遣のリアル』(イカロス出版)より一部抜粋・構成。

東日本大震災の発生で感じた“無力”さ

行けと言われればいつでも行けるが、部隊にその動きはない。特に何をするワケでもなく、淡々と時間だけが経過していく。
"無力"まさにこの言葉を身をもって知ることができたのもこの日だ。人間は、強大な自然の力の前では無力なのだ。
国民の生命と財産を守る自衛官であっても、この状態では手出しはできない。ましてや、被災地から遠く離れた部隊にできることは、命令があればすぐに出動できる状態を整えておくことだけだ。
気持ちは焦るが、できることは限られている。
今はおとなしく出動の命令を待つしかない。やりきれない気持ちを抑えつつ、この日は過ぎていった。

自衛隊が全勢力で東北に向かわなかった理由

「ドーン!」という非常に大きな音とともに目覚めると、生活隊舎が大きく揺れた。時間は短かったものの、大きな地震があったことには変わりない。
時間は朝の4時。普段ならいびきをかいて寝ている時間だが、みなが起き上がった。テレビをつけると、長野県北部で地震があったそうだ。
なんなんだ。日本が破壊されるのか? 地震で真っ二つになるのか? いつもなら冗談で言うようなことが、実際に起きるのではないか。そんな不安に襲われた。
そこからまた眠ることもできず、テレビの音声を小さくしながら見続けていた。「こういうことが起きてもいいように、全勢力では出動しない。それが自衛隊なんだ」と上官に教えられた。

なるほど。たしかに3月11日に全員が東北に向かってしまっていたら、長野への救援は不可能になる。そもそも、国防が第一義の自衛隊の部隊が被災地に集中してしまったら、主任務である国防に空白を生むことになるのだ。
夜が明けるとテレビ各局が被災地上空からの中継を放送し始めた。ありえないほど壊滅状態になっている町を映している。こちらも近所で最大震度6強の地震が発生した。
慌てても仕方ないが、テレビを見ているだけでは落ち着かない。事務室に行って情報収集してみるか。そう思い事務室に向かうと淡々と仕事をしつつ、余震を感じるとニュースが放送されているテレビに目を向ける程度の状態だった。
今慌ててバタバタしても仕方ないのだ。みなそれを理解していた。全員がすぐにでも出動できる状態だったが、命令がない以上は行くことはできない。

闇雲に出動したとしても、支援内容も決まっていないため、待機するしかない。その待機する場所も確保しなければならない。また、部隊が動くにはさまざまな経費が必要になる。その経費を計上するにも命令がなければ根拠がない。やはり、命令は必要なのだ。

部隊の出動決定も…上官からまさかの一言

そんな現実に打ちひしがれている私を見かねた先輩が、「あと10分で伝令の交替時間だから、お前が次の伝令として行ってくれ」と声をかけてくれた。
6個中隊で編制されている私の部隊は、本部管理中隊を除くすべての中隊から伝令を本部の作戦室に派遣していた。2時間交替で、各中隊に割り当てられる予定の支援内容や、今の状況などを逐一自分の中隊に報告するのだ。
「作戦室で何かあれば教えてくれ」とだけ言われてA4サイズのバインダーと白紙のコピー用紙を渡された。2階にある作戦室に入ると、大きな地図が広げられ、ホワイトボードには時系列に沿ってさまざまな情報が記載されていた。
そのなかには東北地震だけではなく、長野で発生した地震の情報についても付け足す形で記されていた。先に入っていた同じ中隊の伝令から必要事項を申し受けて着席する。
これまでの情報は前任者が中隊に持ち帰るため、交替直後からの情報を記入していく。
とはいえ、全般の情報は逐一更新されるが、自分の中隊に必要な情報はあまりない。淡々と少ない情報を書き込んでいると、あっという間に時間が経過し、次の伝令が来てくれた。
必要なことを申し送ると、メモ帳を持って中隊へと戻った。その情報をもとに、ホワイトボードへと情報を書き込んでいく。2時間遅れの情報なのだが、それでいいのだ。緊急性がある重要な情報があるときは、中隊長や小隊長が直接呼ばれるため、伝令が収集する情報は2時間更新でも問題ない。
「いつ頃出発しそうですか?」そう小隊長に聞くと「たぶん明日か明後日には出発すると思う。給水支援だな」との答え。
ついに出発か! そう思い「準備します!」というと「お前は行かない」と一言。
「フェッ!?」
思わず変な声が出てしまった。人間は本当に困惑するとこんな声が出るのか。そのとき、初めて知った。

「今の自分にできること」を見出す

「お前は今月末から教育がある。今回の派遣はいつ帰ってくるかわからない。だから行かせることはできない」なるほど。たしかに今月末から約3か月間の英語教育に参加することになっている。先月は教育に参加するための素養試験を受けたばかりだ。
そういえば、日本海軍出身の祖父から話を聞いたことがある。戦時中であっても教育だけは止めないという話だ。
たとえば、その年に100名が教育に参加するとする。もし1年間だけ教育を止めた場合、本来教育を受けるべき100名が翌年に教育を受けることになる。100名の遅れを取り戻すには、仮に毎年の教育者数を10名プラスしたとしても、単純計算で10年かかる。
本土決戦になっても、その年に計画している教育は止めることができないのだ。小隊長の言う通りだ。
それに、私一人が追加で派遣されたところで、そこまで大きく戦力が向上するワケではない。
これについてはすんなりと受け入れることができた。今の自分にできることは、通常通り教育を受け、良好な成績で帰ってくることだ。


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