「芸能人が事務所を辞めたら干される」現象が、なくなる日がくるかもしれない。
「これまで明確なルールがなかったため、力を持つ芸能事務所がタレントに考えを押し付けて、タレント側は弱い立場に立たされていたという現実は否めません。
今回、そうした問題にきちんとメスを入れたということで、非常に良い指針だと思います」
タレントや俳優など芸能人の権利に詳しい前原一輝弁護士がこう評価するのは、公正取引委員会が9月30日に公表した「実演家等と芸能事務所の取引の適正化に関する指針」に関して。
同指針は、芸能事務所とタレント芸能人との契約・取引に関する独占禁止法上の考え方を明らかにしたもの。
芸能事務所が所属タレントの退所や移籍を妨害すること、契約を一方的に更新すること、過剰な違約金を設定することなどを、「優越的地位の乱用」に該当する可能性があると指摘している。
「所属事務所を辞めたいと言えない」「辞めた途端にテレビから姿を消す」――そんな旧来の芸能界の悪しき慣行に行政がメスを入れた形だ。(ライター・中原慶一)

事務所による“囲い込み”は「五社協定」の名残り

スポーツ紙芸能担当記者はこう話す。
「ここ数年で、芸能界の力関係は大きく変わりました。旧ジャニーズ問題や大手事務所の退潮もあり、所属タレントが声を上げやすくなり、退所や移籍は珍しいことではなくなった。公取委の指針は、こうした動きを後押しするものでしょうね」
背景には、芸能界で長きに渡って続いてきた「退所にまつわるトラブル」や「独立後に干される」問題などがある。芸能界にはこうした“見えないルール”が長くはびこってきた。まずはそれについておさらいしておこう。
もともと日本の芸能界におけるこうした「囲い込み体質」は映画業界にあった。
1953年、映画産業が華やかだった頃、東宝・松竹・大映・東映・日活の5社が、所属俳優や監督を互いに引き抜かない「五社協定」という取り決めを行なったことに始まる。
「契約中の俳優は、他社の映画に出られない」というルールの元、俳優たちは会社の意向で出演作や活動の自由を制限された。

この構造は時代がテレビに移り変わると、芸能プロダクションに引き継がれた。
「芸能プロダクションがタレントの囲い込みを強化し、“独立=裏切り”という構図を作ったんです。
テレビ局も事務所との関係を重視し、事務所を辞めたタレントを忖度して使わないという力学が働くようになり、タレントが事務所を独立すると“干される”という現象が起こるようになりました。
こうした事象は、芸能人の『奴隷契約』だとして、以前から問題になっていたのです」(前出の記者)

繰り返された“タレントvs事務所”トラブル

独立や移籍をめぐるトラブルはバブル以降もたびたび繰り返されてきた。
1990年代前半には、俳優の加勢大周(敬称略、以下同)の「名前使用問題」が世間を騒がせた。
本人が事務所からの独立を希望したが、事務所側が芸名の権利を主張。さらに事務所が“新・加勢大周”(現・坂本一生)を登場させる前代未聞の展開に。結局、イメージが混乱し、加勢の活動は急減。芸能界の「名前すら自由に使えない」現実を浮き彫りにした。
女優・のん(旧名:能年玲奈)は、NHK連続テレビ小説『あまちゃん』で大ブレークした後、所属事務所との関係が悪化。2016年に独立したが、その直後から地上波ドラマやCMから姿を消した。
「表向きは“本人の意思”とされましたが、テレビ局サイドも事務所と摩擦が起こることを恐れ、使用をためらったことが現実です。
本人は独立後、本名でもある“能年玲奈”を使用することをあきらめ、“のん”として、映画やCM、ネット発信で地道に活動を続け、2025年に日曜劇場『キャスター』(TBS系)で復帰するまで、およそ10年間、民放のドラマからは姿を消していたのです」(テレビ局関係者)
2017年には女優の清水富美加(現・千眼美子)が宗教団体への出家を理由に突然の芸能界引退を発表。
事務所側は「契約期間中の一方的な離脱」と反発したが、精神的に追い詰められた末の決断だったとも言われ、芸能契約の過酷さが再び議論になった。
また、モデルでタレントのローラも、長期契約とマネジメント方針をめぐり事務所と対立。SNSで「自由になりたい」と発信したことも話題になり、メディア露出は激減。“干された”との声も上がったが、ローラは海外活動に活路を見出し、今ではSNSを中心に独自路線を築いている。

芸能プロ幹部「ブレイクした途端に“ハイ辞めます”では…」

こうしたトラブルに対し、公取委が今回公表した指針は、芸能事務所とタレントの契約関係を「独占禁止法」の観点から“適正化”しようとしている。
事務所がタレントに一方的に不利な条件を押し付けることは、今後は“独禁法違反”として扱われるおそれがあるというわけだ。前原弁護士が説明する。
「指針では芸能事務所とタレントの契約内容が“合理的”でなければならず、さらに『(事務所がタレントに対し契約内容を)十分に説明し、協議する』必要があるとしています。
『出演料報酬の分配の割合』『契約期間』などポイントとなる点はいくつかありますが、芸能事務所とタレントにとって、“合理的”と考えることがそれぞれ違うのが難しいところです。そのため個人的には、公取委にはもう一歩踏み込んで、何を“合理的”とするか、具体的な事例の提示が欲しかったというのが本音ですね」
ここで、ある中堅芸能プロ幹部の言い分も聞いておこう。
「素人を何年もかけて育てあげ、ブレイクした途端に“ハイ辞めます”では、この商売は到底ワリに合わないんです。それで音事協(一般社団法人日本音楽事業者協会)が中心となって統一契約書を作り、時代に応じた改正を重ねているんですよ」
音事協とは、大手から中小まで芸能プロダクションが多数加盟する業界団体だ。
前原弁護士は、公取委の指針が事務所にさらに負担をかけることについても「ある程度は仕方ない」としてこう話す。

「たしかに、事務所にとっては、指針に応じた契約書の作成やタレントへの説明など、負担が大きくなると思います。ただし、事務所を退所したから“干す”などの妨害をすることは、公取委からすれば、当然、許されない。それは、今回の指針でも、以下のようにハッキリ明記されています」
〈原則として、契約上、競業避止義務等を規定しないこと(既存の契約で定められている場合は競業避止義務等を定める条項を削除すること)〉
「さらに、さきほどの『出演料報酬の分配』や『契約期間』などに加え、二次的使用に関する報酬や、パブリシティー権に関してなど、今後事務所が見直さなくてはならない契約事項はまだたくさんあると思います。
“なあなあ”ではいけないと公取委に釘をさされた訳ですから、小さな事務所などは対応に苦慮していると想像できます」(前原弁護士)

「囲い込み」薄れる意味

翻って、芸能事務所を退所したタレントが、“干され”たり、急に地上波で見なくなったりする芸能界の空気が変わったのは、旧ジャニーズ事務所をめぐる一連の騒動を通してである。
2016年、SMAPの解散と元メンバーの独立劇が勃発。事務所を辞めた3人(稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾)は、新事務所「新しい地図」を結成して再出発を図るも、地上波テレビから姿を消した。
ネット配信番組や映画に活動の場を移したが、スポンサーやテレビ局側の旧ジャニーズ事務所への忖度が指摘された。
「ジャニーズを辞めた途端にテレビから消える。これは偶然ではなく、事務所の影響力を恐れた局側の自主規制が主な原因となっていました」(前出のテレビ局関係者)
ところが2019年、やはり公取委がジャニーズ事務所に対し、「元SMAPメンバーの活動を妨害した可能性がある」として注意を出した。このニュースは業界に衝撃を与えた。
「公取委が芸能界の“暗黙のルール”に踏み込んだのはこの時が初めてです。以後、辞めても使っていいんだという空気が生まれ、局も様子を見ながらも、ようやく腰を上げたんです」(前同)
その後、草彅がNHK大河ドラマ『青天を衝け』(2021年)に出演、香取や稲垣も地上波復帰を果たした。いわば「辞めジャニ排除」からの脱却が始まった。

そして、2023年には故・ジャニー喜多川前社長の性加害問題が大きくクローズアップされ、旧ジャニーズ事務所が社会的批判にさらされると所属タレントの大量退所が起こる。一方のテレビ各局も「事務所の意向に左右されないキャスティング」を掲げるようになった。
「旧ジャニーズ事務所のタレントが、新たに設立されたSTARTO ENTERTAINMENTに移籍すると、同社を率いた福田淳社長の下、事務所とタレントがフェアで対等な関係のエージェント契約やマネジメント契約を結ぶようになりました。
一方、テレビ局も、事務所の顔色を伺うことなく、“辞めジャニ”を起用するようになった。また、SNSやYouTube、配信ドラマなど“テレビ以外の舞台”も整ったことで、事務所の力が相対的に落ちました。本人が直接ファンとつながれる時代、囲い込みの意味は薄れています」(前出の記者)

“辞めても干されない”時代へ

近年、タレントが芸能事務所を退所・独立する流れはますます加速している。
旧ジャニーズ事務所からは、二宮和也、岡田准一、生田斗真…、他事務所でも、桐谷美玲、広末涼子、米倉涼子、小芝風花などが、退所して個人事務所を作ったり、事務所を移籍。こうした例は枚挙にいとまがない。
かつてなら「危険」とされた動きが、いまではごく自然なキャリア選択として受け止められるように時代は変わってきた。
前原弁護士が続ける。
「芸能事務所によってタレントの報酬の取り分はまちまちなので、そうした要因が退所や移籍の一因である場合も考えられます。ちなみに、あるVTuberなどは、売上のうち、8割くらいが事務所の取り分となっていました。
さらにその事務所を辞めたあとも、『1年間は一切のネットでの活動はしない』という条件を飲まされていました。
旧来の芸能事務所に限らず、YouTuberやインフルエンサーなどが所属する事務所でも今後、この手の問題が表面化し、適正化が図られていくのではないでしょうか。
指針に則り、明文化された契約を交わすことにより、タレントの権利が守られるようになっていくことに期待したいと思います」
今回の公取委の提言を機に、芸能事務所とタレントとの関係が、かつてのような“昭和の悪習”から完全に脱し、“働き方改革”が推し進められることになるのか。ようやく、光の当たる場所で議論され始めたばかりだ。
■中原 慶一
某大手ニュースサイト編集者。事件、社会、芸能、街ネタなどが守備範囲。実話誌やビジネス誌を経て現職。マスコミ関係者に幅広いネットワークを持つ。


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