前回の丙午にあたる1966年には、子どもの「産み控え」が広く起こり、出生数は約136万人と前年(約182万人)から約46万人も減少、ほぼ4分の3にまで落ち込んだ。翌1967年には約193万人へと回復したものの、少子化が深刻化した現在、同様の現象が起きれば日本社会にとって大きな痛手となる。
そもそも、丙午の迷信はいつ、どのようにして生まれたのか。本記事では、計量社会学者・吉川徹教授(大阪大学)の著書『ひのえうま 江戸から令和の迷信と日本社会』(2025年、光文社新書)から、江戸時代に迷信が庶民のあいだで形成されていった経緯を解説した箇所を抜粋して紹介する。(本文:吉川徹)
社会に跳ね返る迷信
丙午(ひのえうま)は、十干十二支のひとつで60年ごとにめぐってきます。この年に限って、穏やかならぬことがいわれてきました。それは、この年生まれの女性は気性が激しい、七人の夫を食い殺す、嫁ぎ先に災いをもたらす、さらには、ここに書くのはちょっとはばかられるような悪口雑言まで……。この迷信がいうところは、荒唐無稽であるだけではなく、変更不可能な属性(特定生年と性別)に向けられた差別に他なりません。今の社会ならば、発言したら即時「アウト」になるような類の、倫理にもとる言説です。
ですから始めに断っておきます。本記事のなかでは、ひのえうま生まれの女性たち、およびその年に身ごもった女性たちに加えられてきた社会からの圧力と、生死にかかわるほどの深刻な不利益を扱います。この現象の成立と拡散を許した背景には、社会の不当な位置に女性たちを押しとどめてきた因習規範の強い拘束力と、命と生殖にかかわる女性たちの権利の蹂躙(じゅうりん)があります。
歴史上のこととはいえ、その苛烈さを知れば知るほど、怒りと悲しみを禁じ得ません。
ひのえうまは、もとは古代中国に起源をもつ陰陽五行説に由来しています。しかし他の東アジア社会には、この年生まれの女性が云々というような迷信はほとんどなく、せいぜい災禍が多い年だとされているにとどまります。
じつはこの迷信は、日本国内で江戸初期にいわれ始め、徐々にかたちをなすようになったものなのです。その歴史をひもといていくにあたり、これまでに6度めぐってきたひのえうまを、順に挙げておきます。
①寛文のひのえうま(1666年)
②享保のひのえうま(1726年)
③天明のひのえうま(1786年)
④弘化のひのえうま(1846年)
⑤明治のひのえうま(1906年)
⑥昭和のひのえうま(1966年)
そして7度目になるのが、⑦令和のひのえうま(2026年)です。
ひのえうまの生まれを忌避することは、初めのうちは庶民の吉凶の縁起担ぎのひとつにすぎなかったのですが、60年周期の歴史を繰り返すうちに、ひのえうま女性は気性が荒いらしく、婚姻に差し障りがあるという風説が広まり、何の過ちがあるわけでもないのに、該当する女性たちに厄難(社会の側から加えられる圧力)が降りかかるようになりました。
やがて、実態として深刻な不利益が生じていることも相まって、暦法上いわれがあるとされるこの年に、子ども(女児)をもうけることも、著しく忌避されるようになっていったのです。
現在わたしたちは、特定女性をめぐる差別言説のほうはそれほど気に留めなくなり、ひのえうまとは同年人口が極端に少ない年を指す言葉だと考えがちになっています。けれども、この極めて特異な人口現象は、あやふやな易暦を発端として、江戸期特有の社会文化的要因の絡み合いの末に、思いがけず成立したものなのです。
この迷信は、大安や仏滅などのお日柄とか、鬼門を避けるとか、清めの塩とか、鰻と梅干の食い合わせのような験担ぎとは違い、婚姻と次世代の再生産(妊娠・出産)を通じて、社会のあり方に跳ね返ってくるものです。
始まりは八百屋お七
ひのえうまの女性にまつわる最も古い言説とされるのは、江戸初期の俳人山岡元隣の1662(寛文2)年の俳諧集『身の楽千句』における、「“ひのえ午ならずば”男くいざらまし」(“ひのえうま生まれの女性ではあるまいし、”男を食べることはないだろう)というものです。江戸期最初のひのえうまは、1606(慶長11)年なのですが、この時代に迷信がいわれていたことを示す資料は、他には見出されていません。だとすれば、ひのえうま迷信の事実上の始まりは、今から360年前の1666(寛文6)年、寛文のひのえうまに求められます。
八百屋お七(は、ひのえうま女性の代名詞のように扱われてきました。その生年が、この寛文のひのえうまであったとされます。広く知られているのは、天和の大火(1682(天和2)年)の際の、次のようなエピソードです。
江戸の町の火事で焼け出され、寺に一次避難していた八百屋の娘お七は、そこで出会った男に恋心を抱きます。お七は、再び火事になれば男と再会できると目論み、大胆にも大罪の火付け(放火)を犯し、自ら半鐘を叩きます。そしてその咎で火刑に処されてしまうのです。
事件後の1686(貞享3)年、上方の浄瑠璃作者の井原西鶴が『好色五人女』に「恋草からげし八百屋物語」と題してこの話を採録します。いわく、
ここに、本郷の辺に、八百屋八兵衛とて、売人、昔は俗姓賤しからず。この人、一人の娘あり。天和の大火から逆算すれば、なるほどお七は寛文のひのえうまの生まれであったということになります(その真偽については諸説あります)。名は、お七と云えり。年も十六、花は上野の盛り、月は隅田川の影清く、かかる美女のあるべきものか(井原西鶴1927)。(以下、旧文体の引用にあたっては、字体、句読点を適宣変更)
(ここ、江戸本郷の近辺に、八百屋八兵衛という、元来賤しい出自ではない商売人がいました。この八兵衛には一人の娘がありました。名はお七といいました。年は16歳で、花でいえば上野の山の盛りの桜のようでもあり、月でいえば隅田川の川面に映える月影のように清らかで、いったいこれほどの美人がいるものでしょうか)
昭和戦前期の迷信研究者、日野九思の著書『迷信の解剖』(1938)によると、丙午年には火難に気を付けよ、という暦法上の占事が先に巷間に流布しており、江戸の火事にまつわるお七の物語以降、その年の生まれの女性の気性の激しさが、そこに結び付けられるようになったようです。烈女お七の恋愛悲劇は、歌舞伎や文楽としてさかんに上演されて、庶民に広まっていきました。
余談ですが、平成のカラオケの定番として今も人気の高いポップス演歌『夜桜お七』(1994年リリース)も、この逸話をモチーフとしています。歌った坂本冬美は1967(昭和42)年3月生まれですから、「ひのえうま学年」にあたります。そこまで知ってこの楽曲を聞くと、一段と心に染み入ることと思います。
続く貞享・元禄年間(1684~1704年)には、お七を題材としたものの他にも、ひのえうま女性の激しい気性を描いた世話物が、浮世草子や戯作(げさく)として書かれたり、狂句が残されたりしています。
「丙午昼の契りも絶へぬべし」(ひのえうま生まれの人は、昼間から絶え間なく情交するのだろうな)、「丙午祟るまでこそ命なれ」(ひのえうま生まれの人は、命がけで人を祟るぞ)、「ひのえ午の女なれどもそれにはよらず、男に喰れてここ地なやみし」(ひのえうま生まれの女性だが噂どおりではなく、男性に惑わされて気もそぞろになっている)、「丙午の女は必ず男を喰へると世に伝えしが、それには限らず」(ひのえうま女性は必ず男性を喰うと世間では言うが、そうとも限らない)、「かならず丙午のおんな、夫をかむものにあらず」(ひのえうま女性だからといって、必ず夫にかみつくというわけでもない)。
もっとも、寛文のひのえうま女性たちの婚期にあたる天和・貞享年間(1680年代)において、彼女たち自身が、縁談をめぐって厄難を被ったという具体的な記録は残っていません。婚姻の忌避は未だ明確にはいわれていないけれども、その性格や運勢についての俗言が広く知られ始めていたという状況が推し量られます。
川柳に残るタイムライン
ひのえうま女性の気性の激しさが世間に浸潤(しんじゅん)していくなか、めぐってきたのが1726(享保11)年の享保のひのえうまです。これ以降、ひのえうま女性との婚姻を嫌うことが、禁忌としてのかたちをもち始めます。現在でも、結婚に絡むと日本人は何かと縁起を担ぐものです。よく知らない他者と親族になったり、家族の一員に迎えたりするわけですから、ささいなものであっても、何らかの情報を頼りに不安を和らげたくなるものなのでしょう。
ひのえうま女性の性格や運勢にまつわる俗言は、そこの心情を巧みに突いたものであり、たちの悪い「フェイクニュース」であったわけです。ひのえうま迷信はやがて、この凶年に女児を産むことの忌避にまで飛び火していきます。
この時代の庶民の暮らしのなかで、この迷信がどのように扱われていたのかは、古川柳から知ることができます。
こんにち五・七・五の狂句が川柳と呼ばれるのは、江戸中期にこの庶民文化の「プロデューサー」(点者)として活躍した柄井(からい)川柳の名に由来しています。彼とその後継者たちは、「万句合わせ」という版元主催の公募を常時興行しました。
そして一般庶民からの投句を品評し、各年の秀作を「暦摺」という印刷物にしていました。そこに挙がった句を再録したものが『誹風柳多留』のような秀作集です。
つまり川柳は、単に文芸作品であるにとどまらず、作句、収集、品評、発表、ログ記録という一連の情報流通プロセスを伴うものなのです。これは現在の「サラ川」(サラっと一句!わたしの川柳コンクール、旧名、サラリーマン川柳)や、新聞投書川柳にも受け継がれているやり方です。
そういうわけで、「勝ち句」を決める点者が誰であったのかはわかるのですが、個々の詠み人の名前はほとんど残っていません。詠み人は、江戸の庶民層のマニア的な投句者であり、当時の川柳の流行を担った人びとだったのでしょう。
そして句は、ほとんどすべて男性目線で詠まれています。庶民の日常を男性たちが定型詩にして、ツイートのように発信したものが、「暦摺」(インフルエンサーの「いいね」のログ)として残っているというわけです。
その数は数万句といわれますが、その中に、ひのえうま生まれの女性に対する誹(そし)りや嘲(あざけ)りを詠んだものがあります。
ここでは、迷信研究者の富士川游の著書『迷信の研究』(1932)、古川柳を研究した丸十府の『江戸の迷信と川柳』(1969)、渡辺信一郎の『江戸の女たちの縁をもやう赤い糸』(1996)が「暦摺」などから採録したものを、江戸中期について時系列で並べなおしました。ここから俗言拡散の「タイムライン」を追ってみましょう。
まず宝暦年間(18世紀半ば)に、「蛤にせつせつ座る丙午」という句が詠まれています。
続いて、悪いいわれがあるため縁遠いことや、嫁入りの際に持参金を多く積まなければならないことを揶揄(やゆ)したものがみられます。
これらの句が詠まれた宝暦・明和年間は、享保のひのえうま女性が20~40代のころにあたります。揶揄の対象は同時代の人であるはずですから、彼女たちについて、「ひのえうま女性は男を食う」などという気性をめぐる風聞があったにとどまらず、縁遠かったり、不縁であったりという、婚姻にまつわる具体的な不利益があったことが証拠付けられます。
また、美人の後家との恋が成就しないことの腹いせに、ひのえうま迷信を持ち出しているものもみられます。他の川柳からも、西鶴の八百屋お七以来の「ひのえうま女性は美人なのだが、気性は……」という世評が定着していたことが知られます。
続く安永年間は、川柳が最も興隆した時期で、ひのえうまを扱った「勝ち句」が毎年のように「暦摺」に残っています。ただし、この時代には享保のひのえうま女性たちはすでに壮年となっており、直接の揶揄の対象であったとは考えられません。後家が云々というのも、大年増どころか、当時としては初老の40代後半の女性を指していることになります。
ということは、この時期の川柳に残るひのえうまエピソードは、詠み人の創作、もしくはこの俗信について物知り顔で蘊蓄(うんちく)を開示するという性質のものなのでしょう。あるいは、詠み人はさらに年上のご老人で、粋を気取って男女の色恋を詠んだのかもしれません(現在ならば、オヤジのハラスメント発言ですが)。
やがて次のひのえうま年との端境期に入ると、ひのえうまを扱う読み句は、ひとたびやや下火になります。ところが、次のひのえうまの直前になると、小さなリバイバルが起こっています。
典型的なものに「六十一年目にこわい女出来」という句があります。数年後に迫っている丙午年には、易暦上よくないいわれがあるから気を付けよ、という警句です。ここからは、迷信の向けられる対象が、前のひのえうま女性の婚姻忌避から、次のひのえうまの年の出産回避へと飛び火していったことを読み取れます。
それからさらに15年ほど経った当時の女性の婚期前においては、早くもうら若いひのえうま女性が標的に見立てられ、その婚姻が揶揄され始めます。
予言の自己成就と意図せざる結果
川柳は、無名の庶民の「つぶやき」を、口伝ではなく版元が出す摺り物によって、時空を超えて拡散させることを可能にしました。そのタイムラインを振り返ると、享保のひのえうま女性たちが、気性や運勢についての迷信のために縁付きにくく、その後には美人だが再婚を繰り返すとされ、それが次のひのえうまの出産忌避を誘い、生まれた女児たちが長じると再び婚姻の厄難が煽られる……という経過を確認できます。
しかもそれは、ひのえうまの年の前後や、ひのえうま女性の婚期に限って話題となっていたわけではないのです。縁談や婚姻にまつわる「故事」は、暦のめぐりの合間の時期にも繰り返し詠み伝えられ、易暦の俗言のひとつとして人びとに覚えられていったのです。
他方、『婦人養草』(1686)においては、「丙午の年の女は夫をころす性なりと世俗に云う」(ひのえうま女性は夫を殺す性格だ、と世間でいわれる)、『良姻心得草』(1805)においては、「世俗丙午歳の女は男を殺し、丙午の男は女を殺すとて専ら忌めり」(世の中では、ひのえうま生まれの女は相手の男を殺し、ひのえうま生まれの男は女を殺すとして、さかんに嫌って避けている)と、諭されるようにもなりました。
『婦人養草』や『良姻心得草』は、儒教的な道徳倫理に基づいて、武士や上流町人層の子女に向けて禁訓を示す教本、あるいは教養書として書かれた草子です。ひのえうま生まれの女性との婚姻を忌避することは、これらを通じて良俗の心得のひとつとなっていきました。
今のSNSでは、何気ない「つぶやき」や問題発言が一夜のうちにバズって、リツイートから別のトピックや関係のない人物に飛び火したり、煽りの書き込みやアンチ言説が出たり、過去ログが炎上したりすることがあります。江戸時代の情報空間では、ある意味でこれと似たことが、数時間ではなく100年ほどの間に展開していたことがわかります。
こうして虚実織り交ぜた言説が拡散すると、ひのえうま女性たちの人生、とりわけ縁談にかんする不利益は確定的になります。元来は根も葉もない巷説(いわゆるデマ)であったものも、多くの人びとが信じてしまうと、より正確には、多くの人びとが信じていると多くの人が認識すると、実際の姿を伴うようになるのです。
社会学や社会心理学でいう「予言の自己成就」です。ひとたびこれがマクロな社会の規模で作動し始めると、事態を収拾することはほとんど不可能です。
確かに注意深く読むと、「世俗に云う」、「世俗……忌めり」という言い回しは、易暦の禁忌を犯すと天の報いを受ける、などと不信心を戒めているわけではありません。社会的事実として不利益が実在しているということについて、注意を喚起しているのです。
さらに、川柳のタイムラインからは、江戸中期において、ひのえうまを嫌う風潮が当年の(女児)出産を忌むという、意図せざる方向へと展開していったことがわかります。
民俗学研究者の小林胖生(やすお)は、「文筆の士によって描写された丙午に関する物語は、或は口伝に、或は劇に仕組まれ、至る処で喧伝され、従来は民間の一部に在って左程の影響力をも持ち得ず、或は影響はあっても、それによって実害を被ることも比較的少なかったものが、遂には都鄙を論ぜず、上下の別なく広く一般化されて行ったのである。この風潮は遂には丙午に生れる嬰児に対して、あるいは堕胎、あるいは陰殺の如き惨行をあえてせしめるに至った」と解釈しています。
江戸期の資料においても、「享保十一年丙午年、天明六年丙午年にも、懐胎の婦人、他の嘲りを恥じて流し薬を用い、誤りて命を失うもの多かりしと聞こえたり」(楓川市隠1845)とされています。
また日野九思は、「若し一人の丙午の女児を生めば、本人のみならず一家親族までも天の呪ひを受けたるが如き悲運になかなければならない」とさえ考えられるようになったと述べています。これらはこの時期に、受胎・出産に対して、社会(世間)から、極めて強い圧力が加えられるようになったことを指摘するものです。
しかしこれもまた、易学書などに記されている何かの道理に従ったものではありません。あくまで、気性の荒さに基づいた婚姻忌避が広まったことの、意図せざる結果として派生したものなのです。
興味深いのは、それが刹那的な群衆行動ではなく、40年ものインターバルを経て成立しているということです。江戸の人びとの寿命を考えると、行為の主体は、次の世代の人びとへと移っていたということになります。
後世において、昭和のひのえうまの大出生減を引き起こすことになる当該年の出産忌避は、個人内で完結する認知と行動であったわけではなく、世代を超えた大きな社会的連鎖が、ゆっくりと一巡りして成立したものだったのです。
■吉川徹(きっかわ とおる)
1966年⽣まれ。⼤阪⼤学⼤学院⼈間科学研究科博⼠課程修了。社会学を専攻。専門は現代日本社会論。現在、⼤阪⼤学⼤学院⼈間科学研究科教授。主な著書に『⽇本の分断~切り離される⾮⼤卒若者たち~』(光⽂新書)、『学歴分断社会』(ちくま新書)、『学歴と格差・不平等~成熟する日本型学歴社会』(東京⼤学出版会)、『学歴社会のローカル・トラック~地方からの大学進学~』(大阪大学出版会)。

![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 昼夜兼用立体 ハーブ&ユーカリの香り 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Q-T7qhTGL._SL500_.jpg)
![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 就寝立体タイプ 無香料 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51pV-1+GeGL._SL500_.jpg)
![[コロンブス] キレイな状態をキープ 長時間撥水 アメダス 防水・防汚スプレー420mL](https://m.media-amazon.com/images/I/31RInZEF7ZL._SL500_.jpg)







![名探偵コナン 106 絵コンテカードセット付き特装版 ([特装版コミック])](https://m.media-amazon.com/images/I/01MKUOLsA5L._SL500_.gif)