■“尾張名古屋は城で持つ” 国宝・名古屋城が燃えた5月14日
5月14日は80年前、名古屋空襲が行われ、国宝だった名古屋城天守閣が焼け落ちた日でもあります。
その後、市民によって建てられた今の天守閣は、戦後の名古屋を見守る存在でもありました。その内部に今も残る市民の平和への "想い"とは。
地上55メートル。江戸時代最大級を誇り、「尾張名古屋は城でもつ」と称された名古屋城天守閣。80年前、終戦間際の空襲で焼け落ち、その後市民の強い希望と支援で復元されたのが今の天守閣です。
耐震性に問題があるとされ、この7年間閉鎖されていますが、その内部には名古屋市民の平和を願う証が今も残されています。戦後80年、その歳月が刻まれた名古屋城天守閣の知られざる姿に迫ります。
(大石邦彦アンカーマン)
「連日多くの観光客でにぎわう名古屋城に来ています。今私は天守閣の真下ですが、こちらご覧ください。“天守閣には入れません”“耐震性が低いため閉館中”と看板も出ているんですね。しかしながら、今回、特別に中にいれさせていただきます」
案内してくれるのは、名古屋城調査研究センターの原史彦さん。学芸員として、文化財としての城の調査を行なっています。

(大石)
「先生、このあたりの石垣、ヒビ割れていますが…」
(学芸員・原さん)
「火に焼かれて劣化した石垣なんです。空襲で何らかの形で材木が上から落ちてきて、石垣と一緒に焼いた」

建物は再建されましたが、石垣は江戸時代のまま。
■木造復元に向け調査中 “立ち入り禁止”天守閣内部へ
私たちは今回、特別に許可を得て閉鎖された天守閣の内部へ。
この中に戦後の名古屋を象徴するあるものが残されているといいます。
CBCのカメラが入るのは、2018年の閉館以来、実に7年ぶりです。


(原さん)「じゃあ、開けます」
(大石)「中は、やはりヒンヤリしていますね」
まず目につくのが、シートに覆われた、“金シャチ”の実寸大レプリカ。
(大石)「7年の歳月なんですかね、ほこりかぶっていますね」
雌雄であわせて2トン以上。使われた金は88キロ。
火除けの守り神として、城の屋根を飾る金シャチ。

(大石)
「金シャチ、名古屋空襲の時は焼けたんですよね?」
(原さん)
「本当は疎開しようと思って、おろしている最中だった。でも降ろす時の足場に焼夷弾がひっかかって、天守もろとも燃えてしまったわけなんです。金の塊としては残ったんですけども、それも米軍に接収されてしまった」
炎上する天守閣の写真。
その様子を伝えるのは1枚しか存在しません。撮影時間は、朝の8時ですが、立ち上る黒煙で周囲は夜のように暗かったといいます。

撮影したのは、当時、陸軍の報道部に所属していた岩田一郎氏。
その“最後の瞬間”をこう手記に残しています。
"真っ黒といっても過言でない黒い空に真っ赤な炎が何十メートルと天に立ち上る姿は、なんと表現したらよいか・・・。300年の歴史を秘めたお城が空の魔物に吸い上げられるように、天高く舞い上がっています。悲しさを忘れて神々しいまでの美しい雄姿でした”

焼け落ちた天守は、1959年、戦後復興のシンボルとして鉄筋コンクリートで再建されました。そして今は、木造復元に向けて、石垣の保全と、地盤の調査が行われています。
■名古屋城は"誤爆”だった…? 街を襲った1万トンの焼夷弾
エレベーターで6階へ上がり、階段でいよいよ最上階の展望室へ。
窓からは高層ビルが立ち並ぶ名古屋の街並みが一望できます。

(大石)
「名古屋空襲の時はどんな状況だったんでしょうか?」
(学芸員・原さん)
「もう焼け野原という状況ですよね。中区新栄から中村区の名古屋駅が見えていたという人もいましたから、それぐらいここは焼き尽くされた」

太平洋戦争末期、市街地への無差別空襲をおこなったアメリカ軍。そこで使われたのが「焼夷弾」です。中には6角形の細い筒が複数入っていて、上空1500メートルで一斉に分散。
着弾すると、油とガソリンを混ぜた、ゼリー状の火薬が激しい火災を引き起こしました。
63回行われた名古屋空襲では実に1万トンが落とされ、80年たった今も、市内中心部から不発弾が見つかります。
5月14日の空襲で名古屋城天守閣も焼け落ちましたが、「誤爆」だったという説も。戦時中、アメリカ軍が作った文書には、名古屋を狙った作戦の詳細が記されています。

まずアメリカ軍は、名古屋市内を2区画にわけました。
1945年3月に、人口密度の高い中区や中村区の「ゾーン1」を空襲。そして2か月後の5月にその周辺の「ゾーン2」に標的を移したのです。
80年前の5月14日は、「ゾーン2」の名古屋市北部が空襲を受け350人が死亡、2万戸の家が焼かれました。しかし、この空襲計画の図には中心部に”空白地帯”が。
今の地図に重ねると…「名古屋城」の場所です。
周囲に火災を広げない名古屋城は、燃やしても意味がないとアメリカ軍の攻撃リストから外されていたのです。

名古屋空襲について研究するピースあいちの西形久司理事は、こう分析しています。
(西形さん)
「その日の風向きによって 煙が名古屋城の上空を覆ってしまったわけです。どこが名古屋城で、どこがそうじゃない市街地なのかというのが、上空から煙に覆われて全く見えない状態だったんです。だから後から来た米軍は、適当にパラパラっと焼夷弾を落としてしまった」
“誤爆”ともいえるかたちで焼かれたと考えられる天守閣。
■天守閣の屋根裏は真っ暗 壁一面に掲げられた銅板の正体
今回、取材班は、地上55メートルの名古屋城天守閣、その屋根裏へ入ることが許可されました。

中は、コンクリートむき出し。足元に注意しながら、暗がりを進んでいくと、その先に現れたのは…。
(大石)
「なんだこれ?名前が記されています、中区、中村区、西区、さまざまな人の名前が記してありますね」

四方の壁一面に掲げられた銅板。“芳名板”です。
(原さん)
「これは天守再建のときに寄付を募りまして、寄付をされた方々や団体企業の方の名前をずらりとここに掲示している」
トヨタや名鉄、地元の名だたる企業に個人の名前。そこに、「いっこく会」という文字が。

当時、名古屋市は、城の再建費用を6億円と見積もりましたが、
国の補助を受けても、3分の1にあたる2億円が足りませんでした。
今なら、40億円に相当する額です。
再建は不可能かと思われた中立ち上がったのが、地元の小さな商店や企業の経営者。

■あの5月14日から80年 空襲の記憶と平和への願い
寄付をした人や企業の名前が刻まれた芳名板は高品質の銅板にエナメル加工が施され、設置から65年以上が経った今も、"さび”ひとつ見当たりません。
”平和への願いを、後の世まで残したい”そんな、当時の人たちの強い思いも、うかがえます。
1959年=昭和34年。消失前の精密な図面を使い、形や大きさはかつてと全く同じ、しかし2度と焼け落ちないでほしいという思いを込め鉄筋コンクリート製となった天守閣が完成しました。

(原さん)
「この町にこの天守のシルエットを再現してほしいという(昔の人の)願いなんですよね。それを今後、鉄筋とするか木造とするかは色々な議論があって決めていくことだと思いますね」
名古屋城が燃えた、あの5月14日から、きょうでちょうど80年。
人目に触れない、屋根裏の奥深くに、空襲の記憶と、平和を願う人々の思いが、ひっそりと残されていました。
