【姫路モノレール】わずか8年で休止を迎えた短命都市交通|産業遺産のM&A

わずか8年で営業休止になったモノレールが姫路市(兵庫県)にある。先行開業のうちに急速に潰えたためか正式な路線名ははっきりしないが、通称は姫路モノレール。

姫路市内の姫路駅と手柄山駅間1.6kmを結んでいた、かつての姫路市交通局(現姫路市企業局交通事業部)の鉄道路線だった。

姫路大博覧会の来場客を見込んで先行開業

姫路モノレールは1966(昭和41)年に開催された姫路大博覧会の人出を見込んで開業した。姫路大博覧会とは、姫路城の「昭和の大修理」の完成を記念し、姫路市内の手柄山中央公園をメイン会場として同年4月から6月まで開催された博覧会。期間中に約150万人の入場者があった。

実際の姫路モノレールの開業は、天候などにより工事が遅れたこともあり、姫路大博覧会の開催に1カ月半ほど遅れた。それでも博覧会来場者を輸送する目論見は当たり、開業初年度の1966年には8カ月ほどの営業期間で40万人を超える多くの乗客を輸送した。

“宴のあと”の乗客数の激減

ところが姫路モノレールは翌1967年には急速に“尻すぼみ”状態になった。姫路大博覧会の会期が終わると、乗客数が激減したからだ。閉会後しばらくは一定の乗客はあっただろうが、1967、68年には年10万人単位で減り、68年以降は20万人強で、当然ながら赤字が累積していった。

なぜ、これほど急速に廃れたのか。その背景には、終着駅の手柄山は姫路市近郊の山上公園で、当時は住宅も多くはなく、普段づかいの通勤客や買い物客も少なかったことがあったようだ。加えて14億円を超える総工費をかけていたため、運賃が100円(姫路・手柄山間)と、他の路線に比べ高いことなども影響したようだ。

姫路市は当時の市広報を見る限り、このモノレール構想に市の交通網整備の命運をかけていたフシがある。先行開業当初は姫路から播磨一帯の臨海工業地域までの延伸、市内環状路線の敷設などの目論見もあったようだ。

だが、モノレール休止案を伝える『広報ひめじ』昭和47年11月増刊号を見ると、「1回の運転で8000円の赤字」「モノレールの休止で小学校が一つ建つ」「路線延長は大工事でムリ」など市広報ながら“刺激的”な見出しが目立つ。それだけに、かえって期待の大きさを感じることができる。

ところが、一本の鉄路の夢、壮大なモノレール構想は霧消した。乗客数の激減が響き、モノレール建設反対運動も起きていた。当時の市長も、延伸は無理で、維持も困難、営業休止もやむなしと判断したようだ。

1974年には営業休止となり、1979年には正式に廃止路線となった。当時は千葉市や北九州市(福岡県)、川崎市(神奈川県)などでもモノレール構想があり、交通渋滞を伴わない“夢の都市交通”と期待されていた時期だ。その先陣を切ってスタートした姫路モノレールだが、わずか8年の短命に終わった。

台車をつくったロッキード社の判断

姫路モノレールの台車部分は、アメリカの大手航空機メーカー、ロッキード製の跨座式モノレールであった。当時はロッキード式と呼ばれた。このロッキード社は当時、航空機メーカーでありながら世界のモノレール市場に進出し、日本にも1962年、川崎航空機工業・川崎車輌・日本電気・西松建設などが出資する日本法人、日本ロッキード・モノレール社を置いていた。

ところが、ロッキード社は日本ロッキード・モノレール社を置いてしばらくしてモノレール市場から撤退した。併せて日本ロッキード・モノレール社も、1970年に解散した。

正式に日本でロッキード式を導入したのは、小田急電鉄向ヶ丘遊園モノレールと姫路市交通局だったようだ。だが、事業の撤退・解散となると、補修部品も供給されない。最先端技術を導入して誕生した姫路モノレール。乗客激減の一方で、このような機械・機器の供給体制の不備も、営業休止の大きな要因になっただろう。

なお、日本ロッキード・モノレール社は解散したが、その技術は引き継がれている。1968年頃には川崎航空機工業が日立、東芝などと共同でモノレールの統一規格を開発した。それが日本跨座式モノレールである。日本跨座式モノレールはやがて、コンクリート製の軌道上をゴムタイヤで走行するアルウェーグ式に改良されていった。またモノレール業界で大手といわれた川崎重工業(当時は川崎車輛)にも、日本ロッキード・モノレール社の技術は引き継がれている。

姫路モノレールは市の所有ではあるものの、その製造には多くの民間(メーカー)が関わる。それら供給メーカーの事業からの撤退・解散、新会社設立を伴うM&Aなども、公共交通の盛衰に大きな影響を与えている。

土木学会推奨土木遺産に

姫路モノレールは廃止路線となった。

だが、都市を走る一本のレールと駅舎、橋脚・支柱などを撤去するとなると、市としては莫大な費用や手間がかかる。姫路市としては、“壊すに壊せない”状況が長く続いた。まさに現代の遺跡。路線跡は40年以上も放置された状態だった。

ところが2020年、土木学会が姫路モノレールを全国初の市営モノレールの遺構群として推奨土木遺産に認定した。土木学会では「戦後姫路の躍進と大志の結集体」と評している。

その遺産の中には旧手柄山駅舎もあった。現在の手柄山交流ステーションである。

姫路市としては土木学会推奨土木遺産に認定されるより前の2011年4月、旧手柄山駅舎そのものを手柄山交流ステーション内の「モノレール展示室」としてオープンしていた。姫路大博覧会当時の手柄山中央公園などを映像で紹介し、ジオラマ模型や可動式モノレールを展示。実際に車両へ乗り込み、内部を見学できる。当時、最新鋭であった姫路モノレールの技術的特徴を実物の部品で紹介している。

産業遺産といえば明治期の赤煉瓦建築などが多いが、姫路モノレールもまた現代に語りつがれていく遺産の一つだ。

文・菱田 秀則(ライター)

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