【きのくに信用金庫】信組・信金の大集合体|ご当地銀行のM&A

第二地銀のない県の県民にとって信用金庫(信金)は重要な存在だ。和歌山県も「第二地銀のない県」の一つ。

かつては和歌山銀行という第二地銀があったが、2006年に紀陽銀行に吸収合併された。現在のところ和歌山県に本店を置く第二地銀はなく、県内の法人・個人にとっては信金が預貸や他の金融サービス面でも重要な存在である。

中堅信金として確固たる地位を築く

きのくに信用金庫は、そんな和歌山県を代表する信金である。2024年3月末時点で、出資金25億2600万円、純資産547億7200万円、預金1兆1594億円、貸出金4015億円、店舗数43店舗、役職員数682人(同信金ホームページ参照)。

預金量で規模感を捉えると、信金大手の京都中央信用金庫(京都:預金5兆3000億円強)、城南信用金庫(東京:同4兆円強)、岡崎信用金庫(愛知:同3兆6000億円強。数字はいずれも2025年3月末時点)には及ばないものの、中堅信金と位置づけられ、県内全域と大阪府南部で営業を展開している。

地域各信組が信金に改組し、その信金が大合同して誕生

各地域の主要な信金は、もともと主要な信用組合(信組)が1951(昭和26)年の信用金庫法の制定に伴い信用金庫に組織変更し、地域の中核信金として営業基盤を強化したようだ。

ところが、きのくに信用金庫はそうした成り立ちとは大きく異なる。多数の信組が信金に組織変更し、その多数の信金のM&Aによって誕生した。

その経緯をたどっていく。1920(大正9)年に設立された田辺信用組合、1925年に設立された御坊町信用組合、1933年に設立された串本信用組合があった。

仮にこれをAグループとすると、Aグループの各信組がそれぞれ1952~1953年にかけて信金に改組し、1964年に合併して紀州信用金庫になった。

また、1914年に設立された伊都信用組合、1921年に設立された内海信用組合、1922年に設立された和歌山信用組合をBグループとしよう。

Bグループの和歌山信用組合と伊都信用組合は1951年にそれぞれ信金に改組し、1971年に合併し、和歌山信用金庫になった。

またBグループの内海信用組合は1953年に信金に改組し、1971年の和歌山信用金庫誕生時に同信金に合流した。

一方で、内海信金庫はいわば“分派”し、1979年に和歌山内海信用金庫を設立する。この和歌山内海信用金庫は1989年に新しく和歌山信用金庫となった。

きのくに信用金庫の誕生には他の信組・信金も関わっている。1911年に黒江信用組合として設立され、1948年に改称した海南信用組合が1953年に海南信用金庫に改組した。また1912年に設立された箕島信用組合が1953年に箕島信用金庫に改組した。

この海南信用金庫と箕島信用金庫が1977年に合併し、海南信用金庫となった。

相互銀行の普通銀行への転換(いわゆる第二地銀化)が進んだ1989年当時、きのくに信用金庫に関わる県内信金には、紀州信用金庫、和歌山信用金庫、内海信用金庫があった。この3信金が合併し、1993(平成5)年11月、きのくに信用金庫が誕生した。

上記の信組から信金への改組は1951年に制定された信用金庫法による対応である。当時、和歌山県内の多くの信組が信金に改組したが、そのうちの8信金が紀州信用金庫、和歌山信用金庫、内海信用金庫の3信金に集約された。その3信金のM&Aにより、きのくに信用金庫が誕生したことになる。

なお、きのくに信用金庫は2008年に湯浅信用金庫を合併している。

金融機関の枠を超えたビジネスを展開

第二地銀のない県にある信用金庫の強みは、端的にいうと地元地銀は敷居が高いと感じた小規模企業などの顧客を取り込めることだ。きのくに信用金庫はこの利点を生かし、1993年の発足以来、黒字経営を維持している。

また、「Big Advance」という全国規模のビジネスマッチングから会社ホームページ作成、従業員向けの福利厚生サービスなど金融機関の枠を超えたビジネスを展開し、2023年3月末時点で2000社を超えるパートナー企業の参加を得ている。

第二地銀のない県は和歌山県のほか秋田県、茨城県、石川県、岐阜県、滋賀県などがある。今後も地域金融の再編によって、同様の県は増加していくと考えられる。もちろん信金業界の再編もあるが、そうした状況下にあって金融機関の枠を超えたビジネスの展開は、活路の一つを示していると言ってもいい。

文・菱田秀則(ライター)

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