
加藤商会は現存する会社ではないが、往時は名古屋港を出入りする外米の8割を取り扱っていたとされる尾張きっての米商社だった。創業者は名古屋財界の重鎮といわれた加藤勝太郎である。
勝太郎は1885(明治18)年に愛知県中島郡大里村(現稲沢市)で生まれ、名古屋商業学校(現名古屋市立名古屋商業高等学校)を卒業し、兵役を経て二十歳を超えた頃に貿易商を志して単身、香港に渡った。中国や東南アジアの国々を見て周り、時計などの商品を買い付けては販売した。
勝太郎は貿易業務の知識・腕を磨き、多くの人脈を得て帰国の途につく。そして地元に戻り、名古屋で外米の取り扱いを始めた。東南アジア、主にタイ米を日本へ大量に輸入し、販売する。それが個人事業としての加藤商会の始まりである。
尾張の米騒動をタイ米の緊急輸入で凌ぐ
勝太郎のビジネスが急拡大していた1918(大正7)年のことだ。この年の前半は、前年からの天候悪化が尾を引き凶作となり、米価が急上昇した。政府は4月に米価を統制するため外米管理令を公布し、三井物産や鈴木商店など7社を第1回農商務省の指定商に指定した。このとき、愛知県近辺では加藤商会だけが指定商に任命された。存在と実績を認められた加藤商会は、愛知県のみならず東海地方、全国レベルでも有数の米商社に成長していった。
ところが同年7月、政府の統制も効かず米価は上がり続け、日本全国で米を買えない民衆が米屋を襲い、警察官と衝突する大騒乱が起きた。当時、日本最大の商社といわれた鈴木商店が傾いたきっかけともいえる米騒動である。
暴徒と化した民衆が神戸(兵庫県)にあった鈴木商店本店を襲い、火を放った。名古屋でも暴動寸前の騒ぎになっていた。ところが、勝太郎率いる加藤商店は3万俵ものタイ米を緊急輸入する。その策が奏功し、名古屋では暴動を回避することができた。
株式会社化し、本社ビルを設立

1920年、勝太郎は個人経営だった加藤商会を株式会社化した。同年、名古屋商工会議所の会員に名を連ねる。また、1922年にかけてヨーロッパ各国の農業をはじめ産業事情を視察し、1929年(昭和4年)には濱口内閣から米穀調査会の特別委員に任命されるまでになった。
尾張の米商社として、不動の地位を築いたといっていいだろう。1930年に加藤商会は政府所有米海外輸出指定商に任命されている。
破竹の勢いの中、勝太郎は最初の加藤商会本社ビルを建てた。まだ個人経営だった頃、1916(大正5)年のことだ。場所は舟運の利便性も高い堀川、納屋橋のたもと(現中村区錦1丁目)である。レンガ造りで地上3階、地下1階。
ところが15年後の1931年には、現存するビルに建て替えられた。2代目の本社ビルは建築面積も規模も初代ビルと大きな変わりはなく、レンガ造りが鉄筋コンクリートになった程度である。加藤自身には初代ビルに相当の思い入れがあったのだろう。外壁にはレンガ調タイルを活用し、ファザードはまるで冠を載せたような装飾を施した。
本社ビルの立地を移さなかったのは、明治期から昭和初期の納屋橋あたりは鉄道の便以上に堀川から名古屋港に続く舟運の利便性が高く、貿易に最適だったからだとされている。
2代目の加藤商会ビルは1935年、現在のタイであるシャム国の領事館にもなった。領事館が間借りしたのだが、勝太郎自身もタイの名誉総領事になり、1947年には名古屋貿易会の初代会長など要職を務めるまでになった。
堀川舟運の盛衰とともに

だが1953年、加藤の逝去とともに、加藤家・加藤商会の経営も揺らぎ始めた。その背景には堀川の役割が変わったこともあった。勝太郎が亡くなった頃から、貿易の中心は大型船が出入りできない堀川から大型外国船が停泊できる名古屋港に移っていった。国内荷物は船からトラックに変わり、堀川はいわば必要とされない存在になった。
地の利を失った加藤商会の事業は徐々に衰退していった。
1970年頃に堀川は下水路のように汚れていたという。納屋橋周辺には加藤商会ビルよりも大きく新しいビルが次々に建ち、加藤商会ビルの美しさも忘れられていった。そして加藤商会は1994年に解散した。
再生を期した名古屋市とヤマモリ
2代目のビルは2001(平成13)年に登録有形文化財に指定されている。名古屋市としては2000年に旧加藤商会ビルの寄付を受け、再利用に向けて大規模な改修を実施した。堀川、納屋橋周辺も再び憩いの水辺へと整備が進んだ。
現在の旧加藤商会ビルは地下1階が堀川ギャラリーという施設になった。
地上階には「サイアムガーデン」というタイ料理店が2005年にオープン。サイアムガーデンは名古屋市のテナント選定委員会により選ばれた食品メーカー、ヤマモリが出店した初の飲食店だ。
ヤマモリは三重県桑名市に本社を置き、食品業界では他に先駆けてタイに現地法人を置いた。タイで製造されるレトルトカレーや醤油は同国で高いシェアを誇り、日本でも「ヤマモリのタイカレー」として知られている。ちなみに、1967年には日本で初めて袋詰液体スープを発売し、釜めしの素やミートソースなどでもつとに知られ、日清製粉ウェルナが販売するパスタソースの製造元としても知られる。
だが、ヤマモリにとって飲食店は初の試みだった。おそらく、旧加藤紹介ビルにタイ料理店を出店することに、強い使命感を感じていたのではないか。現在、堀川・納屋橋周辺も都会のオアシスのように整備され、旧加藤商会ビルも美しい佇まいを見せている。
文・菱田 秀則(ライター)
【M&A Online 無料会員登録のご案内】
M&A速報、コラムを日々配信!
X(旧Twitter)で情報を受け取るにはここをクリック
【M&A Online 無料会員登録のご案内】
6000本超のM&A関連コラム読み放題!! M&Aデータベースが使い放題!!
登録無料、会員登録はここをクリック