1963年にフジテレビで放送開始となった日本初のテレビアニメ番組『鉄腕アトム』。漫画原作者の手塚治虫の指揮のもと、型破りな方法で作られた本作は、視聴者の子どもたちだけでなく、ビジネス領域でもものすごい反響を巻き起こしていく。
「アトム・ショック」
1963年1月1日火曜日18時15分。フジテレビとその系列局にチャンネルを合わせた全国の家庭のテレビから、「空をこえて」で始まる、『鉄腕アトム』の主題歌が流れた――と書いてある本を見かけるが、それは間違いだ。この段階では主題歌はまだできていなかった。音楽だけが流れるオープニングだったのだ。
谷川俊太郎が作詞した歌詞で主題歌が録音された日と、何月何日放映の回から歌詞付きのオープニングになったかは記録がなく、分からない。8月10日発売の「少年」9月号に歌詞が掲載されているので、逆算すると7月半ばには歌詞ができていたと思われる。
7月30日放映の第31話からではないかというのが有力な説だ。「全国」というのも虚偽である。63年1月に『鉄腕アトム』を同時放映したのは、フジテレビ、関西テレビ、東海テレビ、仙台放送、広島テレビ、九州朝日放送の6局だけだった。
手塚治虫はアトムがテレビに出た日のことを自伝にこう書いている。
〈このときの感慨は、終生忘れられないだろう。わが子がテレビに出演しているのを、ハラハラと見守る親の気持ちだった。
それはゴールではなく、この後延々と続く苦闘のスタートだった。次の1週間はすぐに過ぎてしまう。〈スタッフは、死にものぐるいで徹夜の奮闘をつづけた。作っても作っても、毎週1回放映というテレビの怪物は、作品を片っぱしから食っていった。〉
第1話『アトム誕生』の視聴率は27.4%と好スタートを切った。これで少しは苦労が報われた。だが、この数字がテレビアニメを怪物にさせていく。
東映動画のアニメーターたちとしても、虫プロがどんなものを作ったのかは気になった。大塚康生はこう書いている(『作画汗まみれ』)。
〈私たちも早速かたずを吞んで見ましたが、1人として技術的に評価する人はいませんでした。極論すると「あれじゃ誰も見ない」と思うほどのぎこちない動かし方でした。
大塚は「3コマ撮り」そのものは理解している。問題にしたのは〈記憶に残るようなキャラクターのおもしろい演技や必要な画面処理ができていなかった点〉だという。
だが、そういう見方をするのはプロだけだった。どんなものだろうと試しに第1話を見た子どもの多くが失望したのなら、第2話の視聴率は下がるだろう。ところが第2話『フランケンの巻』は28.8%と微増した。第3話『火星探検の巻』は29.6%、第4話『ゲルニカの巻』で32.7%と30を突破すると、以後、30%台を維持していく。
絵が動かないので「電気紙芝居」との批判もあったが、子どもたちにとっては、アトムは動きまわっていた。空を飛ぶし、10万馬力でやっつける。何よりも、ストーリーが面白かったし、アトムやウラン、お茶の水博士といったキャラクターが親しみやすかった。ストーリーが面白ければ動きは犠牲にしてもいいという手塚の判断は正しかったのである。フジテレビとの間で半年の延長が決まった。
アトム、アメリカでも飛ぶ
4月から虫プロは『鉄腕アトム』に加え、手塚治虫原作のNHKのSF人形劇『銀河少年隊』のアニメ部分を担当した。竹田人形座の操り人形によるテレビ映画で、1回15分で、63年4月7日から65年4月1日まで92話が放映される(64年4月からは1回25分)。
『銀河少年隊』は「手塚治虫原作」となっている史料もあるが、正確には「原案・キャラクターデザイン手塚治虫」で、原作のマンガはない。虫プロは、宇宙船の飛行シーンやスポーツカーが疾走するシーンなど、人形劇のミニチュアでは迫力の出ないシーンをアニメにした。
物語は、太陽の力が弱まったため地球の生態系に危機が迫り、太陽を復活させられる物質を探すために宇宙の果てへ向かう、銀河少年隊が結成される──これが第1部で、第2部では宇宙人と銀河少年隊が闘う。手塚プロダクションの内容紹介には、〈設定が後の大ヒットアニメ『宇宙戦艦ヤマト』みたい〉と指摘されている。
5月には、『鉄腕アトム』の海外販売に成功した。萬年社の穴見薫が社の業務とは関係ないのに動いてくれたのだ。穴見はテレビ番組の制作や海外のテレビ映画を日本へ輸入していたビデオプロモーション(正式名称は長く「クリエイティブ・アドバタイジング・エージェンシー株式会社ビデオプロモーション」)に『鉄腕アトム』を預けた。同社は手塚とも親しかった久里洋二と柳原良平・真鍋博らによる「アニメーション三人の会」のマネージメントもしていた。
ビデオプロモーションはアメリカ3大ネットワークのひとつNBCに売り込みを始めた。一方、NBCの日本駐在員のひとりがテレビで『鉄腕アトム』を見て、最初はアメリカ製のアニメだと思っていたのが、日本製と知って驚き、「アメリカでの放映権を入手すべき」と本国へ知らせていた。
この2つの流れが合流し、『鉄腕アトム』はNBCの子会社NBCフィルムズが海外放映権を買うことになった。
日本初の「アニソン」が生まれた
アメリカ版はセリフは英語になるが、絵はそのままでカットされない。著作権者として手塚と虫プロの名もクレジットされる。ただ全作品が自動的に放映されるのではなく、アメリカに向かないと判断されたものは、まるごと返される。また、放映順は日本と同じではない。
手塚治虫が調印のために渡米したのは1963年5月だった。初めての海外旅行である。手塚はディズニープロも訪問したが、ウォルト・ディズニーには会えなかった。契約は1本1万ドル、52本なので52万ドル――当時は1ドル360円の固定レートだから、1億8720万円、いまの10億円以上だ。
1本あたり360万円まるごと虫プロに入るわけではないにしろ、制作費が十分に賄える。「1本55万円で受注しても、海外へ売れば儲かる」という、手塚の夢みたいな話は半年で実現したのだ。アメリカでは『Astro Boy』として放映される。
手塚がアメリカに着くと、NBCフィルムズではすでに英語版を試験的に作っていた。手塚はそれを見て驚いた。オープニングの音楽にあわせて歌が付いていたのだ。前述のように『鉄腕アトム』は主題曲はあったが、歌はなかった。間に合わなかったとも言えるが、必要性を感じていなかったのだ。
手塚が帰国して虫プロで英語版を上映すると、社員たちからも主題歌を作ろうとの声が出た。手塚も同意見で、さっそく谷川俊太郎に作詞を依頼した。面識はなかったが、谷川の詩集『二十億光年の孤独』を読み、感銘を受けていたので、この人しかいないと直感したのだ。谷川は引き受けた。
日本初の「アニソン」が生まれた。前述のように、最初の主題歌付きオープニングがいつかは諸説あるが、7月30日放映の第31話からのようだ。
これまでのスタジオに隣接して、冷暖房完備の3階建ての第2スタジオも完成した。
8月に虫プロとフジテレビは『鉄腕アトム』に次ぐ第2のテレビアニメ・シリーズ『虫プロランド』の制作・放映で合意した。タイトルはウォルト・ディズニー・プロダクションのテレビ映画シリーズ『ディズニーランド』を真似したものだ。しかし『ディズニーランド』は実写の紀行映画だったが、『虫プロランド』はアニメーションだった。
手塚の構想では、自身の長編マンガをアニメ化して、60分枠で隔週、1年間、放映する。「隔週60分」は「毎週30分」と長さは同じだ。候補として『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『0マン』『魔神ガロン』『オズマ隊長』などが挙がっていた。原作の長さや物語のスケールが異なるので、作品ごとに回数は異なるようにするという構想だった。
アトムの制作班とは別に虫プロランド班も作られ、第1作は『新宝島』と決まった。脚本・演出は手塚治虫、作画監督には杉井ギサブローが就いた。
予想を超えるマーチャンダイジングの成功
手塚が予言していたマーチャンダイジング収入も、想像以上の展開となった。日本の菓子産業のあり方までも変えてしまったのだ。
業界最大手の森永製菓と明治製菓とはチョコレートで熾烈な販売合戦を展開していた。1961年に明治製菓はチョコレートに色のついた糖衣をまぶした「マーブルチョコレート」を発売し、大ヒットさせていた。初年度は3億1000万円の売上で、翌年からテレビコマーシャルを大展開して34億6000万円の売上となった。テレビコマーシャルの威力を見せつけるものでもあった。
ところが1962年11月、森永製菓も「パレードチョコレート」という糖衣チョコを発売し、「ビックリバッジ」というおまけを付けた。これが当たり、明治製菓は糖衣チョコで9割のシェアを占めていたのに3割になってしまった。
年が明けても明治製菓の劣勢は変わらない。そこで対抗策として目を付けたのが、自社が提供している『鉄腕アトム』だった。子どもたちの間での人気がすごいらしい、アトムをおまけに付けてはどうかとなり、試行錯誤の末、「アトムシール」が誕生した。
明治製菓は番組スポンサーではあるが、だからといって、キャラクターを自由に使えるわけではない。それとこれとは別の話だ。アトムシールの場合、マーブルチョコの定価が30円でその3%がロイヤリティとして虫プロに入ることになった。90銭だが、アトムが始まる前の1962年の売上が34億6000万円なので、その3%としても、1億380万円になる。
アトムシールはマーブルチョコレートのパッケージの中に入れられていたが、それとは別に、蓋にあるチップを送ると、大きなシールがもらえるというキャンペーンが夏に始まった。大きなシールは3種類あった。応募するともれなくもらえるのだが、どれが届くかは分からない。子どもたちはチョコレートをいくつも買ってもらい、何回も応募した。
その結果、明治製菓への応募総数は500万を超えた。それは四国全県の総郵便物とほぼ同数だったという。
大ヒットだった。これと前後してさまざまな業種、メーカーがアトムを使いたいと申し出てきた。虫プロは版権部を作り、これに対応した。1業種につき1社の原則で、文具、ラジオ、マフラー、帽子、子ども傘、シューズ、ノート、ソックス、タイツ、パジャマ、絵の具、シャツと、子ども用のあらゆる日用品にアトムのキャラクターが付くようになった。
無許可の海賊版も出始めたので、正規品であることを証明するため、証紙シールを貼ることにした。商品化の許可を得た企業の団体として「アトム会」も結成される。こうして虫プロはマンガ・アニメの版権ビジネスの基本も作った。
『鉄腕アトム』のビジネスが拡大したころ、萬年社の穴見薫が退職して虫プロに入り、常務取締役に就任した。ビジネスに疎い手塚を支えるためだった。夫が役員になったので、他の社員もやりにくいだろうと、中村和子は退職した(のちに復職)。
虫プロと明治製菓の成功を見て、当然、他社もいきりたつ。とくに、最初に『鉄腕アトム』を提案されながら決断できず明治に取られた森永製菓としては、絶対にアトム以上のアニメを提供したい。
その思いは、広告代理店最大手の電通も同じだった。国産初のテレビアニメの扱いを大阪の萬年社に取られたのは、電通にとって屈辱だった。
文/中川右介
写真/shutterstock
アニメ大国 建国紀 1963-1973
テレビアニメを築いた先駆者たち
著者:中川 右介
2023年10月20日発売
1,265円(税込)
文庫判/576ページ
978-4-08-744583-1
『鉄腕アトム』から『宇宙戦艦ヤマト』まで世界を魅了する日本アニメ
その礎を築いた人々を描く群像劇
90人が1年をかけて90分のアニメ映画を作っていたとき、20人ほどで毎週30分のテレビアニメを作ろうとしたマンガ家がいた。その無謀な挑戦は成功し、キャラクター商品が売れに売れ、多くの追随者を生んで一大産業になる。テレビ・出版界の野心に憑かれた人びとの熾烈で常軌を逸した行動は何を生んだのか。1963年の『鉄腕アトム』に始まるテレビアニメ黎明期を、手塚治虫を中心に描く歴史巨編。