
アイドルを論じ続けて40年超の評論家・中森明夫。「推す」という生き方を貫き、時代とそのアイコンを見つめてきた彼が〈アイドル×ニッポン〉の半世紀を描き出す。
中森明菜は「十年遅れの山口百恵の物語」だ
73年と82年というほぼ十年遅れのデビュー、横須賀と清瀬という東京近郊都市出身、母子家庭と今どき子だくさん家庭という特異な出自、『スター誕生!』でデビューし新人賞は逸するが、デビュー数曲後、ツッパリ少女風の危うさが印象的な歌でチャート一位のヒットを飛ばす(百恵『ひと夏の経験』、明菜『少女A』)、そして映画での共演相手である男性とのロマンス……。さらに件の相手と70年代末に百恵が結婚・引退を決意したように、80年代末に明菜もまた結ばれることができたなら、ほぼ完璧な形で「十年後の山口百恵の物語」は完結するはずだったのだろう。
(中森明夫『アイドルにっぽん』新潮社、2007年)

中森明菜のデビュー曲「スローモーション」
中森明菜はデビュー当時から「尊敬する人」として山口百恵の名前を挙げていた。それは信仰にも近かったように思う。百恵と同じく中学生にして『スター誕生!』に挑戦し、二度も落選している。
それでも諦めなかった。三度目の挑戦で同番組史上最高点(392点)を得て合格、デビューを果たす。その時、唄った山口百恵の歌は、あまりにも象徴的だった。そう、明菜にとって百恵は「夢先案内人」だったのである!
80年代半ば、中森明菜はトップアイドルとなってベストテン番組で松田聖子と順位を競った。聖子が結婚・出産で芸能活動を休止すると、ついに彼女はアイドルの頂点に立つ。そう、1980年代後半、昭和末の世にたしかに〈中森明菜の時代〉が存在したのだ。
しかし……。
89年7月、恋人・近藤真彦の住むマンションで自殺を図る。一命は取りとめたが、トップアイドルのこの事件は大騒動となった。明菜のキャリアは中断する。この件を私は以下のように捉えた。
デビュー当時から「尊敬する人」として百恵を信仰してきた明菜にとって、無意識のうちに自ら反復した「百恵の物語」が破綻しようとした時、自死をさえ決意させるほどに彼女のうちでその物語の呪縛は強固だったはずだ。(同前)
アイドルにおける“結婚”という難題
事件から5か月後、明菜は近藤真彦と同席して〝お詫びと復帰表明〟記者会見を開いた。それは大みそかの夜、紅白歌合戦の放送中にテレビ朝日の終夜討論番組を中断する形で報じられた。
89年12月31日―そう、中森明菜がデビューしてアイドルとして活躍した1980年代の最後の夜であったのは、あまりにも暗示的だ。
だが、「十年遅れの山口百恵の物語」が頓挫した時からこそ、真に「中森明菜の物語」は始まるのであって、死と引き換えにしてさえ完結することのなかった物語が破綻して後、彼女自身が誰のものでもない自らの物語を紡ぎ始めることを表明したその夜(の記者会見)こそが、実は「繰り返された70年代の物語」の真の意味での終わりだったのではなかろうか?(同前)

当時の会見の様子(「週刊明星」1990年1月18・25日号より)
このように総括して、私は明菜にエールを送った。しかし、どうだったろう? その後の彼女の軌跡を見る時、はたして真に「中森明菜の物語」が生きられたと言えるだろうか?
前章(注釈:『推す力』第二章)で説いた〝芸能界の女王〟の生き方─美空ひばり、山口百恵、松田聖子─頂点に輝いた彼女たちには、明らかな〝結婚〟というアポリア(難題)があった。
そこが男性芸能人とは多少なりとも違う。本来は祝福されるべき〝結婚〟が、女性芸能人にあっては困難や桎梏として立ちはだかるのだ。昭和末の女王・中森明菜にとっても、それは大きな難関だったように思う。
その後の彼女は芸能活動の休止と復活を繰り返した。所属事務所やレコード会社を転々とし、体調不良や仕事面での不調ばかりが醜聞的に報じられる。やがてテレビで見かけなくなり、現状が不明となった。その軌跡はあまりにも痛々しい。ちなみに数多くいた82年組の女性アイドルたちの中で、唯一、中森明菜だけが一度も結婚していない。
これまでのアイドル像からかけ離れたキョンキョン人気
続いて、小泉今日子である。小泉は当初、あまたいる82年組アイドル、松田聖子フォロワーの一人にすぎなかった。
彼女が頭角を現すのはデビュー翌年、5枚目のシングル『まっ赤な女の子』のスマッシュヒットによってだ。髪をショートにしてイメージチェンジした。同曲を主題歌にしたドラマ『あんみつ姫』に主演して高視聴率を獲得、注目されてもいる。けれど本格的なブレークは、84年の9枚目のシングル『渚のはいから人魚』のヒットによってだろう。
当時、彼女は事務所に無断で頭髪をカリアゲにして、周囲を慌てさせたという。しかし、この一件がアイドルとしての真価を発揮する第一歩となった。
それは定型的なアイドルの枠をはみ出し、鮮烈でファッショナブルでセンスに満ちていた。女性アイドルとして初めてファッション雑誌「an・an」の表紙を飾りもした。自身を「コイズミ」と呼び、やがて「キョンキョン」と呼ばれ、ついには「KYON2」となる。ポストモダン・ブームの80年代半ば、「KYON2」という記号は時代の先端のアイコンとなってゆく。
それを決定的にしたのが、85年の『なんてったってアイドル』の大ヒットだろう。アイドルがアイドルであることを遊ぶ、メタ・アイドルソングだ。作詞は秋元康。この一曲によって、小泉今日子は80年代アイドルブームの頂点に立った。

小泉今日子の大ヒットシングル「なんてったってアイドル」
その年、私は25歳だった。フリーライターである。サブカル雑誌やアイドル雑誌に原稿を書き飛ばしていた。
同世代のライターらと3人で1冊の本を作ってほしい。締め切りは……3日後だという。3日後!? 唖然としている間もなく、赤坂プリンスホテルのスイートルームに押し込まれた。
週刊誌ならぬ、週刊本という企画である。毎週、著名人の語り下ろしをザラ紙のペーパーバックで出版していた。予定していた著者がトンズラして、ラインナップに穴があく!? 急遽、出版まわりでワサワサしていた無名の若手ライターの私たちが召集されたという次第である。
なんでもいいから喋ってくれ、と泣きつかれた。さあ、大変。喋った、喋った。喋っては、テープ起こしが届き、赤入れをして、喋っては、テープ起こしが届き、赤入れをする。
それにしても、こんなものが本になるのか? 本にしても大丈夫なのか? あまりにもハチャメチャな若者放談だ。せめて何かこう……本のテーマはないのか?
キョンキョンのお尻のぬくもりが……
「キョンキョンだ!」と誰かが言った。その年、小泉今日子は大ブレークしている。よし、私たちもKYON2をめざして無名の若手ライターから卒業しよう! 週刊本『卒業/KYON2に向って』は1週間後に発売されて、それなりに話題を呼んだ。
これがきっかけで私は筑紫哲也編集長の「朝日ジャーナル」誌の〈新人類の旗手たち〉というページに登場、新人類文化人と呼ばれるようになる。急に脚光を浴びた。取材が多数舞い込む。ラジオ番組でついに小泉今日子とも対談した。目の前に実物のキョンキョンがいる。
とはいえ、新人類ブームなんてすぐに過ぎ去る。あっという間に消費された。所詮、私たちは時代のアダ花にすぎない。週刊本で放談して、そこそこの脚光を浴び、新人類3人組とも呼ばれた私たちは、その年の暮れに雑誌の企画で解散宣言を果たす。
「月刊プレイボーイ」のグラビアページだった。六本木のスタジオで似合わないタキシードを着た3人は、著名なカメラマンに写真を撮られる。そこに1人の女の子が現れた。

写真はイメージです
……小泉今日子だ。 新人類トリオは、時代のスター・キョンキョンにプロポーズするも、あえなく振られる……というシチュエーションである。
「よし、新人類の皆さん、フロアにうつ伏せに倒れて、折り重なってください!」
カメラマンの指示が飛ぶ。小柄な私が一番上にうつ伏せた。
「今日子ちゃん、新人類の上に座って~」
なんと私のお尻の上に小泉今日子が腰掛けたのである! 今でも忘れられない。19歳のキョンキョンのお尻の感触。ぬくもり。ああ、あのぬくもりがあったからこそ、その後、40年近くもアイドルの魅力を伝える仕事を続けてこられたのではないか? そう、それは私の人生のハイライトのような瞬間だった。

週刊明星 1990年1月18・25日号(集英社)
文/中森明夫
写真/Shutterstock
『推す力 人生をかけたアイドル論』
著者:中森 明夫

2023年11月17日発売
1100円(税込)
新書判/256ページ
978-4-08-721289-1
アイドルを論じ続けて40年超。「推す」という生き方を貫き、時代とそのアイコンを見つめてきた稀代の評論家が〈アイドル×ニッポン〉の半世紀を描き出す。彼女たちはどこからやってきたのか? あのブームは何だったのか? 推しの未来はどうなるのか?
芸能界のキーパーソン、とっておきのディープな会話、いま初めて明かされる真相――そのエピソードのどれもが悶絶級の懐かしさと新鮮な発見に満ちている。
戦後日本を彩った光と闇の文化史とともに、“虚構”の正体が浮かびあがるアイドル批評の決定版!