
2023年のノーベル生理学・医学賞を受賞したのは、新型コロナウイルスのmRNAワクチン開発に大きな貢献をしたカタリン・カリコ氏。苦難の連続だったという、40年にわたる研究について本人に聞いた。
度重なる困難に直面しても諦めなかった女性科学者の素顔

カタリン・カリコ氏
Csilla Cseke/MTI/AP/アフロ
「こんな形のインタビューは初めてです」
パソコンの画面に映る30人ほどの記者の顔を見て、にこやかに話し始めたカタリン・カリコ氏。新型コロナウィルスとの戦いの中で、前代未聞のスピードで大量生産を可能にしたメッセンジャーRNA (mRNA)ワクチンの基礎技術を確立した立役者だ。
彼女の40年にもわたるmRNA 研究は、度重なる困難に直面しても諦めなかった不屈の意志の結実とも言える。コロナウィルス・パンデミックから世界を救ったこの研究により、カリコ氏と共同研究者のドリュー・ワイスマン氏はノーベル生理学・医学賞を受賞した。
インタビューが行われたのは、mRNAワクチンの一般接種がスタートした直後の2021年3月。研究の背景を直接聞くことができた。
娘のテディベアに900ポンドを隠し持って渡米
カリコ氏のmRNA 研究は、母国ハンガリーで博士号を取得して以来、40年続いている。
フィラデルフィアのテンプル大学から研究員としてオファーを受け、娘と夫を同伴してアメリカに渡ったのは1985年。当時、ソ連の影響下にあったハンガリーから対立関係にあるアメリカへ渡ることは難しく、100ドル以上の外貨を国外に持ち出すことも禁じられていた。
「ハンガリーで100ドルは結構な金額でしたが、私の給料が出るまでの1ヶ月間、アメリカで一家3人が100ドルで生活することは不可能でした」
そこで、車を売ったお金を闇為替でポンドに換え、2歳の娘のテディベアの中に900ポンド(当時・約28万円)を隠してハンガリーを出国したという。
そのとき2歳だったひとり娘のスーザン・フランシアさんは現在41歳。2008年の北京五輪、2012年のロンドン五輪にボート競技のアメリカ代表として出場し、ふたつの金メダルを獲得した長身のオリンピアンだ。この会見の初めにカリコ氏は「6日前に孫が生まれした」と、うれしそうに報告してくれた。
上司の嫉妬から強制送還の危機に
「テンプル大学では仕事に没頭しました。娘が朝起きる前に出勤し、学校が終わるころに娘を迎えに行き、また研究室に戻って夜まで仕事を続ける日々でした。
そのころにまとめた研究論文が認められ、ジョンズ・ホプキンス大学から声がかかった。
ところが研究成果を出している彼女に嫉妬した上司が、ジョンズ・ホプキンス大学側に対し「テンプル大学から出たら彼女は違法滞在になる」と嘘の情報を流したという。このことで、ジョンズ・ホプキンス大学はカリコ氏へのオファーを取り下げた。
上司はさらにカリコ氏のことを違法滞在者だと移民局に通告。強制送還の危機に立たされた。移民局との問題が収まるまでは失業状態。「水の中で溺れないように手足をバタバタさせ、なんとか沈まないようにしている感じだった」と当時を振り返る。
周囲から協力を得られない孤立感
テンプル大学をやめた彼女は、1989年にペンシルバニア大学に移籍。助教授として働くことになった。するとそこでは、女性の研究者からいじめにあったという。
もともとDNAに比べてmRNAの研究は非常に難しく、なかなか結果が出せなかった。そのことから「時間の無駄」「もっとやるべきことがほかにある」と言われた。
「『できるはずがない』と思っている人たちに囲まれて研究を続けることは困難でした。
ペンシルバニア大学での彼女の評価には「教授職に就く資質が欠落している」と書かれていたそうだ。1990年代の初めに大学側から研究を停止するように言い渡され、続ける場合は「降格と減給」という条件を突きつけられた。しかし研究をやめる選択肢は彼女の中にはなかった。
「誰かの責任にせず、真摯に努力を続ければ必ず道は開けると信じてやってきました」

共同研究者のドリュー・ワイスマン氏(右)と
AP/アフロ
教授職にも就けず、サポートチームももらえず孤立していた彼女は、1997年、HIVワクチン開発の研究を行っていたドリュー・ワイスマン教授とペンシルバニア大学のコピールームで巡り合う。
この出会いをきっかけに、mRNAの共同研究がスタート。2006年にはmRNAを使った難病治療のための会社をドリュー・ワイスマンと設立した。彼らが発表した研究結果こそが、今回のコロナワクチン開発につながったのだ。
人類への貢献につながると信じ続けた研究人生
教授に昇格することなく2013年にペンシルバニア大学を去ったカリコ氏は、ドイツの医薬品会社ビオンテックの副社長に就任。ビオンテック社はmRNAの可能性を見抜き、2018年にはmRNAベースのインフルエンザのワクチンの臨床実験に入っている。
カリコ氏がmRNAの可能性に賭けてから40年。なぜこれほどまでに研究にこだわったのか?
「もちろん、私自身がmRNAの可能性に魅了されてきたからです。リサーチを続ければ続けるほど、mRNAの可能性を信じるようになりました。
研究に捧げる姿を見てきた彼女の母親も、「ノーベル賞に値する仕事です。がんばりなさい」と励ましてくれたという。
どんな逆境に置かれてもギブアップせず、歯を食いしばって信じる道をつき進んだ結果が、今回のノーベル賞に繋がったのだ。
最後に「今ではビリオネアですね?」と投げかけると、こんな言葉が返ってきた。
「共同研究者のドリュー・ワイスマンと私は、mRNA技術を世界中で自由に使えるようにしたいと思い、当初、特許を申請しませんでした。ところが大学のIP担当部門に『特許を取っていない技術を使いたい人はいない』と言われて申請したんです。その後、権利はペンシルバニア大学に譲渡され、大学は特許をビオンテックとモデルナへ売却してしまいました。私たちの手元に届く金額は微々たるものですから、ビリオネアではありません(笑)」
取材・文/中島由紀子