
1990年台初頭まで、モノ作り大国日本として世界的地位を誇った日本が、なぜいまや世界でも有数の貧乏国になりつつあるのか。その背景には、企業が社員を人的資本として扱ってこなかったという要因もありそうだ。
「上司の立場も威厳もあったものではないですよ!」
「まさか32歳の部下から指示を出されるようになるとは想像もしていませんでした。相手は年下の上司でも他の部署の若手社員でもありません。正真正銘、直属の年下の部下から、ネット通販の業務について『こうしてください』と具体的に指示されたんです」
日用品メーカーに勤務する鈴木康夫さん(仮名)が自嘲気味に発したこの言葉を、私は今でもよく覚えています。鈴木さんは40代後半で、営業担当の中間管理職でした。
コロナ禍前のことです。鈴木さんが勤務する会社では自社商品のネット通販を始めました。
事業を所管することになったのは鈴木さんの所属する営業部門でした。
鈴木さんたちは、専門技術や知識、経験を持つ人材が社内にいなかったので、ホームページのデザインから制作、運営管理、販売実績・顧客の分析まで、一連のネット通販業務を代行してくれる企業に外注しました。
しかし鈴木さんたちは代行サービス会社を指示通り動かすのに四苦八苦しました。鈴木さんたちに技術や知識が無いためうまく意思疎通できず、意図が十分に伝わらなかったのです。ホームページのデザインを修正してもらうのにも苦労したほどで、ましてや代行サービス会社の運営管理や分析手法に注文をつけることなど到底できませんでした。
そこで鈴木さんの会社では、ネット通販の起ち上げ・運営経験がある30代初めの社員を中途で採用し、鈴木さんの部署に配属させました。彼女はもともとIT(情報技術)のエンジニアで、SE(システムエンジニア)の経験もあります。
彼女は代行サービス会社の運営管理や分析手法を点検し、やがて上司である鈴木さんに「代行サービス会社との交渉でこう言うように」と指示を出すようになりました。
鈴木さんはコンピューターやITの知識がほとんどありません。ネット通販事業の経験もまだ十分とは言えません。そのため彼女の指示が的確かどうかわからなくても、指示通りにするしかありませんでした。

「上司の立場も威厳もあったものではないですよ。昔はこれでも若手から尊敬され手本にされていたんです。新人や若手が入ってきたら取引先に連れていって営業や交渉の現場を実地に見せて、仕事を覚えてもらいました。『俺の背中を見て仕事を覚えろ』ですね。それが今ではインターネットが当たり前になったために、仕事の内容や進め方がすっかり様変わりして、これまでの知識や経験が通用しない場面だらけになってしまいました」
「インターネットやコンピューターについての社内研修は無かったのですか」
私はそう鈴木さんに聞きました。
「ありませんね。
「もしインターネットやコンピューターについての研修が開催されたら、鈴木さんは積極的に参加したいですか?」
「参加したいですね。この年になってコンピューターやITについて勉強するのは正直、しんどそうで、面倒にも感じられますが、勉強できるものならしてみたい気持ちもあります。ただ会社が本当に研修会を開いてくれるかどうか。これまでも何度かそんな話が出て、結局は立ち消えになったんですよ」
鈴木さんはそう言って苦笑を浮かべました。
このエピソードを読んで、第1章冒頭の田中さんの話と同じように、身につまされた人は少なくないと思います。もしかしたら鈴木さんのような上司あるいは同僚が近くにいらっしゃったり、あなた自身がそうであったりするかもしれません。
鈴木さんは「うちの会社はあまり研修に熱心ではなく、仕事に必要な知識や技術はOJTで学ぶのが中心でした」と言いました。
このような企業は日本では多数派です。日本企業の社員教育はOJTが中心で、OFF JT(Off the-Job Training=職場外訓練)と呼ぶ、業務を離れた研修の実施については欧米企業に比べて消極的なのです。
教育・研修費はアメリカ企業の60分の1
日本企業の能力開発(OFF JT)費の水準は、アメリカやイギリス、フランスなど欧米5カ国に比べて極端に低く、しかもGDPに占める割合が年々低下しています。アメリカのGDPに占める企業の能力開発(OFF JT)費の割合は、1995年から1999年の平均が1.94%でした。
それが2010年から2014年の平均では2.08%へと増加しています。フランスも同1.45%から同1.78%へと増加しています。イギリスは同2.23%から同1.06%へと減少していますが、それでも1%を超えています。
一方、日本は1995年から1999年の平均が0.41%とアメリカやイギリスの5分の1の割合でした。しかも2010年から2014年の平均は0.10%まで低下し、アメリカの20分の1、イギリスの10分の1の水準にまで落ち込んでいます。
日本企業がOFF JTに支出した実際の金額になると、アメリカの20分の1どころではありません。
調査対象期間となった2010年から2014年のアメリカの実質GDPは、平均するとおよそ16兆ドルでした。当時のドル円の為替レートは、2010年の1ドル80円台後半から2014年の1ドル110円弱まで幅がありますが、仮に1ドル100円として計算するとおよそ1600兆円です。同期間の日本の実質GDPは500兆円ほどなので、アメリカの経済規模は日本の3倍強に達します。つまり、
1/3(日本の経済規模はアメリカの3分の1弱)×1/20(日本企業の能力開発費の割合はアメリカ企業の20分の1の水準)で、1/60
日本企業が社員の能力開発に使っている実際の金額は、アメリカの企業の60分の1弱に過ぎないのです。
厚生労働省はこのような状況に対して、「平成30年版 労働経済の分析」でこう警鐘を鳴らしました。
「国際比較によると、我が国のGDPに占める企業の能力開発費の割合は、米国などと比較し、突出して低い水準にあり、経年的にも低下していることから、労働者の人的資本が十分に蓄積されず、ひいては労働生産性の向上を阻害する要因となる懸念がある」
厚生労働省の危機感はもっともでした。
前章で触れたように、2000年以降、デジタル技術の浸透によってモノづくりの分野では競争力の決め手は独創的な機能や魅力的なデザイン、巧みなブランディングへと変わりました。
それらを担うのは優秀でクリエイティブな製品開発担当者やデザイナー、マーケティング担当者であり、まさに人材の質が競争力の決め手になりました。
小売業やサービス業でも、インターネットの普及でビジネスのあり方や仕事の進め方が一変しました。
小売業ではネット通販の市場規模が13兆円を超え、スーパーマーケットの年間総売上高に迫ろうとしています。経済産業省「令和3年度 電子商取引に関する市場調査 報告書」によれば、2021年の日本国内の消費者向けEC(電子商取引)の市場規模は、物販が前年比8.61%増の13兆2865億円に達しました。一方、経済産業省の「商業動態統計」(2023年1月公表)によると、2022年の国内スーパーマーケットの総販売額は前年比1.0%増の15兆1536億円でした。

サービス業でもホテルや交通機関をネットで予約したり、映画館などのチケットをネットで購入したりするのがごく普通の手続きになりました。
さらにあらゆる業種で、デジタル技術を使って事務作業を効率化したり、定型的な作業を自動化したりする取り組みが企業の競争力を左右するようにもなりました。
日用品メーカーに勤務する鈴木さんが自嘲気味に語ったように、まさに「仕事の内容や進め方がすっかり様変わりしてしまい、これまでの知識や経験が通用しない場面だらけ」になったのです。
こうした変化に対応するため、日本企業には、過去に積み重ねてきた知識や技術、体験を継承するOJT(職場内訓練)だけではなく、OFF JT(職場外訓練)による社員の能力開発がこれまで以上に強く求められていたのです。
では厚生労働省の警鐘を日本企業はどう受け止めたのでしょうか。
2010年から2014年まで低下していた能力開発費は2015年以降、微増へと転じているのがわかります。しかし2010年に比べると3分の2程度の金額にとどまり、欧米企業との格差を縮めているとは到底言えません。
仮にアメリカ企業の能力開発費の水準が横ばいだったとしても、アメリカの実質GDPは今や日本の4倍にまで拡大しているので、日本企業の能力開発費はアメリカ企業にさらに水を開けられている可能性が濃厚です。
それどころかコロナ禍収束後の人手不足に直面するアメリカ企業は、優秀でやる気のある社員を獲得するため、能力開発費をいっそう積み増ししているかもしれません。そうだとすればアメリカ企業の背中はいっそう遠ざかっているでしょう。
いずれにしても厚生労働省の警鐘は顧みられていません。
「OJTが日本企業の強み」は過去の話
ここまで日本企業が欧米企業に比べ、いかにOFF JTに消極的かを見てきました。ではOJTには熱心なのでしょうか。
私が『日経ビジネス』の若手記者だった1980年代には、「日々の業務を通して、先輩社員が過去に積み重ねてきた知識や技術、体験を学ぶOJTが日本企業の強みだ」とよく言われました。それは今も変わっていないのでしょうか。
残念ながら「OJTが日本企業の強み」だったのは過去の話です。
日本企業のOJT実施率は、男性社員が50.7%とほぼ2社に1社の割合で、比較可能なOECD(経済協力開発機構)加盟23カ国中、18位と下位に低迷しています。女性社員への実施率は45.5%と男性社員よりも低く、同19位に沈んでいます。
OECD平均のOJT実施率は、男性社員が55.1%、女性社員が57.0%なので、日本企業の実施率はOECD平均より男性社員が4.4ポイント、女性社員が11.5ポイントも下回っている計算になります。女性社員への実施率の低さが際立ちます。
日本企業とは対照的に、OJT実施率が高いのはスウェーデンやフィンランド、アメリカの企業です。スウェーデンやフィンランドでは男性社員が70%近くに達し、女性社員は70%を超えています。アメリカも男性社員が60%台半ば、女性社員は70%近くに達しています。
本章の冒頭で日用品メーカーの鈴木さんが「うちは仕事に必要な知識や技術はOJTで学ぶのが中心でした」と指摘したように、日本企業の社員教育はOJTが主流ですが、そのOJTにしても実施率は世界標準を下回っているのです。

社員の能力不足に直面する日本企業は81%
ではなぜ日本企業のOJT実施率が世界では下位に落ち込んでしまったのでしょうか。経営者や上司は社員の能力や知識、技術に満足しているので、OJTを実施しなくてもいいと考えるようになったのでしょうか。
もちろんそんな喜ばしい状況ではまったくありません。
社員の能力不足に直面している日本企業の割合は何と81.0%と、比較可能なOECD22カ国の中でひときわ高い水準に達しています。8割を超える日本企業の経営者や上司は、社員の能力や知識、技術に満足しているどころか、社員は能力不足だと考えているのです。
これに対して欧米の主要先進国では、社員の能力不足に直面している企業の割合はドイツとアメリカが40.0%、フランスが21.0%、イギリスが12.0%です。
日本はなぜ社員の能力不足に直面している企業の割合がこれほど高いのでしょうか。
答えはすでに明らかです。
日本企業がOFF JTに使っているお金は、アメリカの企業の60分の1弱に過ぎません。OJTの実施率も、男性社員では比較可能なOECD加盟23カ国中18位、女性社員では同19位に沈んでいます。企業が社員の能力開発を図ろうとしなければ社員の能力は高まりません。こんなことはだれにとっても自明の理でしょう。
それなのに日本企業はなぜOFF JTにもっとお金をかけ、OJTの実施率を高めようとしないのでしょうか。その8割が社員の能力不足に直面しているのにもかかわらず、手を打とうとしない日本企業、とりわけ資金力のある大企業の経営は異様にも思えます。
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『日本の会社員はなぜ「やる気」を失ったのか』(平凡新書)
渋谷和宏

2023/11/17
1045円
192ページ
978-4582860443
1990年代半ば以降、市場や技術動向の激変に対応できず、競争力を失った日本企業――。
その凋落の一因に、会社員の「やる気」の無さがあるのは間違いない。米ギャラップ社が世界各国の企業を対象に実施した調査によると、日本企業の「熱意あふれる社員」の割合はたったの6%であった。これは調査した139カ国中132位で最下位クラスである。
では日本の会社員が「やる気」を失った原因は一体何なのだろうか?
過去30年にわたる日本企業のマネジメント(経営・管理・人事)の問題点を丁寧に検証し、私たちが再び「やる気」を取り戻して、日本企業が復活を遂げるための処方箋を提示する。