“隠しカメラ”をしこんで風俗店に潜入、平野レミの放送事故ギリギリワードに蹴り… “番組つぶしの久米”と呼ばれた久米宏・熱血時代

ラジオ『土曜ワイド』での「久米宏のなんでも中継!!」コーナーが評判となった久米宏さん。その後、テレビの仕事も始めるように…。

大ヒット番組の司会者だった久米宏さんが本音を明かす。『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』(朝日新聞出版)より、一部抜粋、再構成してお届けする。

自分の役目を自覚するきっかけとなった中継とは…

「なんでも中継」が評判となり、さらなるウケを狙って始めたのが「隠しマイク作戦」だった。袖にマイクを仕込んで街なかから生中継をする。中継車はかなり離れたところに待機する。いわば「どっきりカメラ」のラジオ版だ。



「キャバレー突撃体験」や「ピンクサロン潜入ルポ」。女装して新宿駅前の靴店に行ったこともあれば、ビキニの女性のへそ形を採るために真夏の海水浴場を白衣とネクタイ姿で歩き回ったこともある。今だとプライバシーや人権上の問題でできない企画ばかりだが、あんなスリリングで面白い体験はなかった。

“隠しカメラ”をしこんで風俗店に潜入、平野レミの放送事故ギリギリワードに蹴り… “番組つぶしの久米”と呼ばれた久米宏・熱血時代

キャバレーのイメージ 写真/Shutterstock.

ホームレスに扮して中継したときは大問題になった。よれよれの格好をして銀座・三越の前にゴザを敷いて座り込む。イヤホンを付けられないので、オンエアがいつ始まるかわからない。

遠く離れた所でディレクターがハンカチを振るのを合図にオンエア開始。歩き出すと通行人はよける。お店に入ろうとすると、「入っちゃダメ!」と冷たくあしらわれる。

数寄屋橋のほうに歩いていくと交番を見つけた。

「トイレを貸してください」
と頼んだら、お巡りさんが叫んだ。

「ダメダメ、汚ねぇ! 向こう行け!」

これが全部、隠しマイクを通してオンエアされてしまった。
『土曜ワイド』は生放送なのだ。「警察官が人を差別するのか!」。抗議の電話が警視庁に殺到し、TBSは警視庁記者クラブへの「出入り禁止」の処分を食らった。

“隠しカメラ”をしこんで風俗店に潜入、平野レミの放送事故ギリギリワードに蹴り… “番組つぶしの久米”と呼ばれた久米宏・熱血時代

TBS放送センターの外観 写真/Shutterstock.

どうすれば面白くなって、どうやってリスナーやスタッフの予想を裏切るか。番組中はずっとそれを考えながらしゃべっていた。毎週「もっと良い中継を」と思っていた。

そして、ときには自分でも感心するほどうまく話せたこともあった。

今も記憶に残っている中継がある。渋谷の「道玄坂」がテーマだった。華やかな格好をした若者たちが行きかう秋の道玄坂。足元に落ちているものに目が留まった。

「道端に吹き寄せられた落ち葉が側溝に溜まり、その脇に赤いハイヒールのかかとが落ちています」

ラジオは映像こそないが、聴く者はこちらが発する言葉一つで映像を思い浮かべる。
ハイヒールのかかとが折れて、それを拾わずに立ち去った女性。そんな風景を連想し、道玄坂のイメージがぱっと広がる。聴く者の想像力のレンズにピントを合わせる対象を一つでも現場で探しだし、うまく言葉にのせること。それが自分の役目だと思うきっかけになった中継だった。

当時の『土曜ワイド』はラジオとしては破格の予算があった。スタッフ約20人も普通の番組の数倍だ。
番組が終わった後はスタッフみんなで翌日の朝方まで飲んでいた。毎週がお祭りだった。

平野レミさんとの生放送がコワかった

時間を少し戻そう。『土曜ワイド』のリポーター時代、それと並行して、ラジオ番組『それ行け!歌謡曲』の中で、月曜から金曜までスーパーマーケットや商店街から公開生放送をする「ミュージックキャラバン」というコーナーを担当することになった。

スーパーマーケットに買い物に来たお客さんを前に、ジュークボックスから出てくる曲の歌手が男か女かを当てるというシンプルなクイズで、コンビを組んだ平野レミさんが叫ぶ「男が出るか~、女が出るか~」のフレーズは流行語になった。

レミさんは底抜けに明るいキャラとハイテンション、自由奔放というか天衣無縫というか、放送禁止用語なんて頭の片隅にもなく、思ったら口にする。世の中にこんな人がいるのかと思ったほど彼女との生放送はコワかった。

番組スポンサーは食品会社だった。クイズに当たった人には、その会社の缶詰をプレゼントするのだが、彼女が無邪気に聞いてきた。

「久米さん、この缶詰の中身にベトコンの肉が入ってるってホント~?」

当時はベトナム戦争のまっただなか。米軍に徹底抗戦したベトナム・ゲリラ兵の肉が缶詰に……。生放送である。このときは思わず持っていたマイクで彼女の頭を叩いて、足を蹴とばして、とりあえず黙らせるほかなかった。

“隠しカメラ”をしこんで風俗店に潜入、平野レミの放送事故ギリギリワードに蹴り… “番組つぶしの久米”と呼ばれた久米宏・熱血時代

ベトナム戦争 写真/Shutterstock.

のちに「歩く放送事故」の異名を取るようになる彼女は、これ以来、僕に「これ、言っていい?」と目で確認を求めるようになった。何を言い出すかわからないから、こちらは彼女の目からいっときも目を離せない。そうなってくると、目を見るだけで彼女が何を考えているか、次に何を言おうとしているかわかってくるから不思議だ。

放送事故ギリギリのスリルは、その後、横山やすしさんとの『久米宏のTVスクランブル』でも、より濃厚に味わうことになる。

余談となるが、麻雀仲間だったイラストレーターの和田誠さんから、「彼女と結婚したいから紹介してくれ」と頼まれたことがあった。

レミさんの声に一目ぼれしたそうだ。数々のトラウマを抱えた僕はすかさず、「あの人だけはやめたほうがいいです。人生を棒に振りますよ」と取り合わなかった。すると、前述のディレクター橋本隆さんに頼み込んだらしい。出会って1週間で二人は結婚することになり、おしどり夫婦として知られるようになった。僕はまったく立場を失った。

1週間出ずっぱりで露出が増えた僕は、林美雄、小島 一慶と3人で「TBS若手三羽ガラス」と呼ばれるようになった。その勢いでテレビの仕事も始めることになる。しかし4年間はことごとくうまくいかなかった。

鈴木治彦さんがメイン司会者だった早朝の生放送『モーニングジャンボ』では低血圧がたたった。ちょうどそのころからCMがコンピューターで何時何分何秒という定刻に入るようになった。すると、しゃべっている間にCMになったり、「また来週」と言ってから数秒も空いたり。「低血圧だからダメなんだ。お酒を飲んで出演してみよう」と一度ワインを一口飲んで臨んだら、よけいボロボロになった。

“隠しカメラ”をしこんで風俗店に潜入、平野レミの放送事故ギリギリワードに蹴り… “番組つぶしの久米”と呼ばれた久米宏・熱血時代

のちに担当することになる『ニュースステーション』記者会見 写真/共同通信

カルーセル麻紀さんとの深夜放送は想像を絶する下ネタ番組で、「親戚も大勢見ているので、サングラスをかけさせてくれ」と頼み込んだほどだった。和田アキ子さんとの歌謡番組も長くは続かなかった。収穫は和田さんのハイヒールが僕の足のサイズとぴったりだとわかったことぐらいだった。

芹洋子さん、岡崎友紀さんとも組んだ。久世光彦さん演出のドラマにも、生放送でその日のニュースを読むチョイ役で出演したものの、やっぱりダメだった。

顔は笑っていても、いつも背中は汗びっしょりで、膝はガタガタ震えて思い通りにできたことなど一度もなかった。関わる番組という番組が次々につぶれていく。僕はいつの間にか「番組つぶしの久米」「玉砕の久米」と呼ばれるようになった。

正直、『ぴったしカン・カン』は失敗するだろうと思っていた

『土曜ワイドラジオTOKYO』のオープニング恒例の団地前「聴取率調査」をいつも通りに終えたときだった。放送スタッフらしき男性に呼び止められた。

「久米さんでしょうか。大将が会いたがっているので、ちょっとお願いできますか?」

いぶかしく思いながらついていくと、神社の脇にワンボックスカーが止まっている。車のドアが開くと、そこにいたのは萩本欽一さんだった。近くでたまたまフジテレビ『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(『欽ドン!』)のロケをしていたのだ。

「あー、久米ちゃん? 聞いてたよ、ラジオ。面白いね。はい、これ」

そう声をかけられて、萩本さんから終戦直後の子どものようにチューインガムを渡された。

“隠しカメラ”をしこんで風俗店に潜入、平野レミの放送事故ギリギリワードに蹴り… “番組つぶしの久米”と呼ばれた久米宏・熱血時代

チューインガムのイメージ 写真/Shutterstock.

僕は萩本さんのことを業界では「大将」と呼ぶということを知らなかった。

1960年代後半から萩本さんと坂上二郎さんのお笑いコンビ「コント55号」はテレビ界を席巻していた。ある世代以上なら、『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』のちょっとエッチな野球拳は記憶に焼き付いていることと思う。70年代に入ってから萩本さんが一人で出ていた番組は、『欽ドン!』を含めて軒並みヒットを飛ばしていた。

僕はそのとき、萩本さんが自分の持っていたガムをくれたのだとばかり思っていた。しかしずいぶん後に萩本さんから聞かされた話では、実はTBSラジオの番組スタッフが近所に配っていたガムを『欽ドン!』のスタッフを介して萩本さんがもらったものだった。

それからまたずいぶん経って、そのスタッフとは、のちに時代を画したフジテレビのお笑い番組『オレたちひょうきん族』の名物ディレクター、三宅恵介さんだったことがわかった。

NHK・BSプレミアム『結成50周年!コント55号 笑いの祭典』(2016年11月23日放送)に僕がゲスト出演した際、萩本さんと初めて出会ったときの思い出話をしていると、遊びに来ていた三宅さんが「ああ、そのスタッフ、僕だよ」と明かしたのだ。

その出会いの場所は、僕の記憶では湘南・江の島の松林という絵になるスポットだったが、三宅さんによると東京・千住の住宅公団近くだった。人の記憶はあてにならない。当時、偶然そこに居合わせた3人が、約40年ぶりに偶然また顔を合わせたことになる。

ガムの手渡しから1カ月を置かずに、萩本さんの事務所からプロデューサーを通じて「新番組のオーディションを受けるように」と言われた。スタッフルームに行くと、簡単なクイズ番組の司会のようなことを30分間ほど行った。プロデューサーはひと言、
「あー、いいねぇ」

番組は二郎さん率いる芸能人組の「ぴったしチーム」、欽ちゃん率いる高校生組の「カン・カンチーム」に4人ずつ分かれ、司会者の僕が出すクイズに次々答えていく。司会者はヒントを出しながら、正解が出ると「ぴったしカン・カーン!!」と言って鐘が鳴る。至極単純なゲームだ。

こうして火曜午後7時半からの30分番組『ぴったしカン・カン』が1975年10月7日に始まった。

僕が31歳になって86日目のことだった。もちろん、このときにはそんなことには気がついてもいなかった。

“隠しカメラ”をしこんで風俗店に潜入、平野レミの放送事故ギリギリワードに蹴り… “番組つぶしの久米”と呼ばれた久米宏・熱血時代

久米宏さん(2018年5月31日撮影) 写真/共同通信

正直に言うと、僕はこの番組は失敗するだろうと思っていた。大掛かりなセットを使ったTBSの別のクイズ番組が水曜日の同じ時間帯でスタートすることになり、TBSはその宣伝に全精力を注いでいたからだ。

初期の日本のクイズ番組はすべてアメリカのコピーだったが、『ぴったしカン・カン』は萩本さんのオリジナル企画。鳴り物入りの新番組のオマケのようなかたちで萩本さんに企画・構成をすべて任せた番組だった。

ところが、いざフタを開けてみると、視聴率は10%台前半で始まって、またたく間に20%を超え、30%に届く超人気番組になった。番組開始から20%に達するまでの最短記録を樹立した司会者ということで、僕はTBSから表彰までされた。

文/久米宏

『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』

久米 宏

“隠しカメラ”をしこんで風俗店に潜入、平野レミの放送事故ギリギリワードに蹴り… “番組つぶしの久米”と呼ばれた久米宏・熱血時代

2023年10月6日発売

990円(税込)

340ページ

ISBN:

9784022620842

久米宏、初の書き下ろし自叙伝。TBS入社から50周年を経てメディアに生きた日々を振り返る。入社の顛末から病気に苦しんだ新人時代。永六輔さんに「拾われた」ラジオ時代、『ぴったしカン・カン』『ザ・ベストテン』そして『ニュースステーション』の18年半、その後『久米宏 ラジオなんですけど』の現在まで。久米宏という不世出のスターの道のりはメディア史にそのまま重なる。メディアの新しいありかたを開拓してきた一人の人間の成長物語としてめっぽうおもしろい、さらにラジオからテレビの貴重なメディア史の記録。