
午前0時のライフスタイルを開発する音楽番組として始まったラジオ番組『JET STREAM』。その成功の鍵には城達也のナレーション、そしてその原稿を書いていた劇作家であり放送作家の堀内茂男の存在があった。
ラジオの深夜放送が大ブームとなった1960年代後半
午前零時、ラジオのスイッチを合わせる。
ジェット機の離陸音と航空無線の交信が聞こえた後、「ジェットストリーム……」というアナウンス。フランク・プゥルセル楽団の『ミスター・ロンリー』が始まると、「遠い地平線が消えて……」と印象的なナレーションが綴られていく。
夜間飛行へと誘うパイロットの声は城達也。
番組で流れるのはイージーリスニングと呼ばれるインストゥルメンタルのムード音楽。数曲耳を傾けていると、今度は世界中の街や情景を描写した詩が綴られる。そして再び音楽に戻っていく。
エンディングのナレーションが流れるころ、時刻は深夜1時前を指している。『夢幻飛行』とともに、聴き手は暗闇とゆっくり溶け込むように眠りに落ちる。今夜も夢の中で旅人となりながら……。
城達也さんが“機長”を務め、堀内茂男さんが台本を書いていたころの『JET STREAM』が好きだった。
そこにはロマン、ダンディズム、イマジネーションの世界がどこまでも広がっていた。
耳障りで無駄なフリートークが一切なく、話し手や書き手の顔もよぎらない『JET STREAM』は、どこまでも心地よかった。

パーソナリティ選出に半年…抜擢された声優
始まり──。
それは日本が高度成長期の真っ只中。海外旅行の自由化が起こり、ラジオの深夜放送が大ブームとなる1960年代後半のこと。
当時の日本航空の宣伝課長・伊藤恒氏は、シカゴ駐在員だったころに愛聴していたアメリカン航空提供のFM番組『Music 'til Dawn』(1953~70)のように、日本航空でも海外旅行を促進するような同様の番組を作れないかと考えていた。
奇しくも同じころ。
日本初の民放FM放送局であるFM東海(東海大学のFM実用化試験放送局)の当時の営業部長・後藤亘氏(エフエム東京・名誉相談役)は、「日本人が世界に旅立ちたいという想いを幾多の人に伝える、イメージの世界で旅のできる番組を作りたい」と企画に取り組んでいた。日本航空に持ち掛けると、両者の想いは合致。
番組タイトルが『ムーン・ライト・ハーモニー』から『JET STREAM』に正式に決まると、パーソナリティ選びに半年間を掛けた。
この男の声しかない。
通算1000回を機にオープニングナレーションを変更で問題が…
3年後の1970年──。
『JET STREAM』は4月27日に開局したばかりのFM東京(現TOKYO FM)という新たな“空港”から離陸を開始。
しばらくすると、9月10日の通算1000回を機にオープニングナレーションを変更する案が日本航空宣伝部から持ち上がる。
担当することになったのは、番組中の曲間に読まれる旅のナレーション原稿を書いていた劇作家/放送作家の堀内茂男。
だが、堀内は日本航空宣伝部の伊藤造酒雄氏が書いたものを素晴らしいと思っていて、なぜ変えなくてはならないのかと戸惑った。
プレッシャーを抱えながら思案する日々。一方で周囲から「変えなくてもいい」という意見も出る始末。なかなか手をつけられずにいた。下手を打てば、番組のイメージを壊しかねない仕事だった。
しかし、いよいよ1000回が目前に迫り、覚悟を決めた堀内はペンを握る。
プレッシャーに喘ぎながら、何度も書き直した末、1年以上の時を要してようやくでき上がった。素晴らしい前作の枠組みを踏襲しつつ、“きらめく星座の物語”という言葉に出逢った瞬間、自分の中で「よし、これでいける!」という確信が生まれて、あの詩が誕生した。
遠い地平線が消えて、
深々とした夜の闇に心を休めるとき、
はるか雲海の上を音もなく流れ去る気流は、
たゆみない宇宙の営みを告げています。
満天の星をいただく果てしない光の海を、
ゆたかに流れゆく風に心を開けば、
きらめく星座の物語も聞こえてくる
夜の静寂(しじま)の何と饒舌なことでしょうか。
光と影の境に消えていったはるかな地平線も、
瞼に浮かんでまいります。

ちなみに、曲の間で流れる旅のナレーション(堀内氏は「抒情飛行」と呼ぶ)にはこんなエピソードがある。
番組のスタート当初、堀内は海外に行ったことがなかった。また、番組の収録は月曜から金曜までの1週間分をまとめて行うので、毎週何篇も創作しなければならない。これは大変なクリエイティヴだ。
あらゆる情報にアンテナを張り巡らせ、各国の観光局に出向いたり、必要であれば現地にも足を運ぶ。こうした取材に明け暮れて、30分で書けることもあれば、何日も悩むこともあった。
常に外側から、いろんな情景を見ていたのかもしれない。
距離感といえば、城と堀内は27年間で二人だけで食事をしたことは一度もなかったという。
お互いの性格、プロ意識があってのことだろう。二人の間にあるのは、紙に書かれた原稿だけ。
「ナレーターには一つ一つの活字を生きている人間の言葉で伝える使命がある」
深夜零時に放送台本を書くという美学を持っていた堀内の原稿を、役作りのためいつもスーツ姿でやって来たという城は、夜間飛行のコックピットのようにスタジオの照明を落として収録に挑んだ。
そして“機長”としてのイメージを損ねたくないと、顔の見えるTV出演は断り続けた。美学には美学で応える。男たちの暗黙のルール。
毎回、作家と読み手の勝負でした。城さんは読みやすいように言葉を直してほしいなんて注文は、口が裂けても言わない。世界一、堀内の原稿を上手く読めるのは自分だ。そんなプライドを城さんは持っていた。
こうした1ミリたりともブレのない確固たる姿勢があったからこそ、『JET STREAM』は幅広い世代のリスナーや本物のファンを獲得できた。

時代は70年代から80年代へ。FMが若者たちの間で大ブームになった時も、TVが軽薄な演出で視聴率を稼ぎ出した時も、騒がしいフリートーク番組とは一線を画した不変の存在であり続けた。
ナレーターが単に活字を音声化する作業者であるなら、近い将来、それは、ロボットにとってかわられるかも知れない。おそろしいことである。しかし、ナレーターには一つ一つの活字を生きている人間の言葉で伝える使命がある。一つの一つの言葉は生きている。生きた言葉は、リスナーに様々な、生きたイメージを描かせる。しかもそれには、色がついている。肌ざわりも感じられる。さらには、匂いまでも──。今、私がめざしているのは、生きたイメージを描いて頂ける、生きた素材の語りなのだ。
時は流れて1994年2月──。
城はある現実と直面する。食道癌が発覚したのだ。
真のプロだった彼は、点滴を打ちながら収録をこなす一方で、思い通りの声が出なくなって遂に番組降板を決意。辛い選択だったに違いない。
同年12月30日の放送が城にとっての最後の『JET STREAM』となった。27年に渡ってフライトすること7387回。
私がご案内役を務めてまいりましたジェットストリームは、
今夜でお別れでございます。
長い間、本当にありがとうございました。
またいつの日か、夢も遥かな空の旅でお会いいたしましょう。
……では皆さま、さようなら
翌年2月25日、城達也氏が他界。享年63。
城と共に降板(これも美学)した堀内は8年後、伊武雅刀が3代目機長に就任(2002年10月~2009年3月)すると現場に復帰。大沢たかおが4代目機長を務めた時期(2009年4月~2020年3月)は、監修の立場で番組を支えた。

時代は21世紀へと移り、ネット文化やSNSが浸透した。海外旅行は憧れからいつの間にか身近なものとなり、年を重ねた渡航者にとってそれは回想するものへと変わった。
“アームチェア・トラベラー”という言葉をご存知でしょうか。直訳すれば“安楽椅子の旅行者”。私の最も好きな外国であるイギリスで生まれた言葉です……これは現代の日本人にも当てはまる気がします……そんな時代に『JET STREAM』の聴き方も今の世に合ったものへと変化し、番組としての存在も新たな価値を帯びてきたのでは……
「自分にとってのもう一つの人生」と、作家は言う。2022年には55周年を迎えた伝説と奇跡のFM番組『JET STREAM』。二人の男たちの美学をこれからも忘れない。
文/中野充浩 写真/shutterstock
*参考・引用
『ジェットストリーム 旅の誘い詩集~遠い地平線が消えて~』(堀内茂男著/TOKYO FM出版)
『JET STREAM~OVER THE NIGHT SKY 第1集』鑑賞ガイド(ユーキャン)
『“ジェットストリーム”にひとり』(城達也著/PHP研究所)
『報道ステーション』2007年1月25日放送「団塊世代に贈る」