
俳優・柳沢慎吾さんは、役者業のかたわらバラエティ番組で明るいキャラクターを演じ、「ひとり警視庁24時」「ひとり甲子園」など多くの持ちネタも披露してきた。御年62歳、唯一無二のキャラクターで芸能界をひた走る柳沢さんが、「卒業」をキーワードに、その思い出や卒業したことを語る。
体育館の取っ手を壊して、平家物語を模写? 衝撃の卒業エピ
――誰しもが経験する「卒業式」というイベント。柳沢さんは、どんな卒業式を迎えたか、記憶に残っていますか?
柳沢慎吾(以下同) 鮮明に覚えているのが、高校の卒業式ですね。
式が終わって友だちと帰ろうかなって思っていたときに、空き教室である先生が泣いているのを見つけたんですよ。その先生は、担任でもなかったんですが、年も近いせいか友達みたいに接してくれたんです、「お前らが一番印象に残った生徒だったよ」って。
思い返せばその先生は、僕らを例に「上級生を見習え」と下級生に指導していましたし、細かいところを見ていてくださったんでしょうね。
その姿を見て、ああこの学校にはもう戻ってこないんだな、と寂しい気持ちになったことを覚えています。
――素敵なエピソードです。今も同級生の方とは交流があるのでしょうか?
地元・小田原(神奈川県)の小・中学校のメンバーはいまだに連絡が来ますし、遊びに行くこともありますね。何より実家が近所だから(笑)。今日は誕生日(取材日は柳沢慎吾さんの誕生日)だったんで「おめでとう」ってメッセージが来ましたし。
卒業して結婚したり、子どもができたりしても、「お前あのとき、あの子のことが好きだったろ?」みたいな感じで、昔のままの他愛のない話しかしていません。62になっても昔の関係が続いているって幸せなことですよ。
でも卒業式って言うと、実は苦い思い出もあるんです。
――苦い思い出、というと?
50年も前の話になりますが、中学2年生だったときの卒業式前日に、式の会場だった体育館の入り口の取っ手を友だちと引っ張りっこして壊しちゃったんですよ。そうしたら先生に「馬鹿野郎!」と怒鳴られて(笑)。罰としてなぜか平家物語の小説をすべてノートに模写しろって言われたんです。
――なんとなく昭和らしい罰則ですね(笑)。
模写した後、母が学校に来て顔真っ赤にして謝っていましたね。
ちなみに、最近ロケで50年ぶりに母校の中学校を訪れたんですけど、校舎が当時のまんまだった。
体育館の取っ手を見てみると、僕が引っ張って壊した部分は新しいのに変えられていたんですが、古いほうはそのままだった。オンエアではカットされちゃいましたが、思わずあのときの自分のバカさ加減を思い知ったなあ。
「ひとり甲子園」は姉の「やって」という一言で始まった
――すでに還暦を迎えられた柳沢さんですが、趣味などで卒業されたことは、何かあるのでしょうか?
車をぽんぽん乗り換えるのはきっぱりと止めましたね。僕はこれまで13台車を所持していて、3年に1回ぐらいのペースで乗り換えていましたが、今は同じ車に16年乗ってますね(笑)。
車雑誌の取材を受けたときに話したんですよ。「昔の車は人間が乗って転がしていたけど、今の車はコンピュータに人間が乗っているだけ」って。かっこよく自分の考えとして述べたんだけど、この言葉、実はとあるモータージャーナリストの発言を引用していて、あとで編集さんにばれちゃった(笑)。
――ドヤ顔で言っちゃったら恥ずかしいやつですね(笑)!
僕の人生は全部パクリなんですよ。「あばよ!」も別に僕オリジナルの言葉じゃないし、「ひとり警視庁24時」「ひとり甲子園」も全部誰かのものまね。
――とはいえ「ひとり警視庁24時」や「ひとり甲子園」は柳沢さんならではの唯一無二の芸だと思います。
昔から誰かのまねをするのは得意でした。たとえば「ひとり甲子園」は、高校野球の神奈川大会の決勝戦を観に行ったことがきっかけ。僕の姉が東海大相模が好きで、原辰徳さんとは同い年だったんですよ。
結果見事、東海大相模が優勝して甲子園の切符を掴んだその晩、自宅で夕食を食べているときに姉が「ブラスバンドの真似してみてよ!」って急に言ってきたんですよ。当時の僕はあまり野球に興味がなかったんですけど、見様見真似で仕方ないから机を叩いて、ブラバンの演奏を口ずさんだ。
そしたら姉のテンションが上がってきて、僕もノっちゃって原さんのお父さんである監督の原貢さんや応援団のものまねも披露して。あまりにヒートアップしたもんだから親父に「メシの後にしろ!」って怒鳴られちゃいました。今思うと「ひとり甲子園」はあれが最初でしたね。
「テレビが好きだし、テレビに育ててもらった」
――1979年、「3年B組金八先生」(TBS系)でドラマデビューを果たし、芸能界入りした柳沢さん。
本当にすごい時代でしたよ(笑)。プロデューサーが夜10時から「焼肉行くぞ!」って言って、朝まで飲み明かすというのが当たり前の時代でしたからね。
素人のころなんて拒否権はなく、黙ってついて行くのみでしたけど、悪いことばかりではなくて、人脈づくりが捗ったり、プライベートだから話せることを聞けたりと自分のためになることも多かった。今だったら上の人間が気軽に飲みになんて誘えませんし、強引に誘ったらパワハラになっちゃいそうですよね。
――今の10~20代からすれば、昭和のテレビ業界のエピソードなんて別世界の話のように感じるかもしれません。
たしかにね。僕も若い子にはあまり「昔はよかった」って言わないようにしています。自分が若いころに過ごした芸能界は、大変なこともいっぱいあったけど楽しくて、キラキラした華やかな世界で、大好きでした。
けど今は全然違う。ここ数年でコンプライアンスもすごく厳しくなりましたし、発言一つひとつに気をつけなくちゃいけない。
僕は「芸能界はところてん」みたいなものだと思っています。
僕が今もテレビに出れているのは時代に恵まれていたからだと思う。規制も緩くて、しがらみにとらわれずいろいろ発言できたから「あばよ!」も生まれたし。「テレビがつまらなくなった」なんて叫ばれて久しいですが、もう時代が違うからね。
――かつての“テレビ業界の気質”から卒業、というワケではないですが区切りはつけるべき、と。
でもテレビにはずっと出続けますよ。やっぱりテレビが大好きだし、テレビに育ててもらった恩があるから、どんなに難しくなってもやり続けていきたい。
だからYouTubeもやらないんです。周りからは絶対ウケるし、テレビでできないようなネタもできるからってオススメされるんですが、僕はテレビのほうがいい。今も家にいるときはだいたい一日中テレビをつけて、音だけでも聞いているぐらい僕はテレビっ子ですから。
――時代は変われど好きなものは今も変わらない、ということですね。
こういう時代だし、いいことばかりじゃないかもしれない。どんな人生が待っているかはわからないけど、正しい方向に向かっていってほしいね。
暗いトンネルに入ったとしても、進んでいけば必ず明かりは見えるからさ。
――もしかしてそれも誰かの言葉を引用されていたりして……?
あ、ばれた(笑)。せっかくいいこと言ったのに!
まあ、人に感謝する気持ちと笑顔でいられること。この2つは覚えておくといいかもよ。
自分ばっかり優先する人や暗い人って他人が寄りつかないからね。謙虚に明るく振る舞っていれば、人って寄ってくるからその気持ちを大事にしてほしいです。
取材・文/中田椋/A4studio 撮影/井上たろう ヘアメイク/宮田裕香子