
メジャーリーグ、ロサンゼルス・ドジャースの日本人といえば、今は大谷翔平だが、その歴史を紡いだ日本人選手がいた。今から約30年前の1995年、年棒たった980万円で海を渡った野茂英雄だ。
ドジャース、ついに優勝!
とにかく、こういうゲームは勝ちさえすればいい。
いつにも増して勝つことが最優先される。だから完投できなくても、まったく悔いはない。いつもそうするように相手チームの打線を1番から9番まで順に思い浮かべ、ただ0点に抑えることだけを考えてマウンドに向かいました。
1995年9月30日、サンディエゴ・ジャック・マーフィー・スタジアムでのパドレス戦。優勝のかかった試合での先発でしたが、僕の気持ちは冷静でした。
本当のことを言えば、バルデスが投げた前日に優勝を決めてほしかった。あの日、僕は絶対に優勝するものだと思って、ウキウキしながらひと足早くサンディエゴ市内のホテルに帰ったんです。翌日の先発でしたから。
そして優勝したら、誰かから〝帰れコール〞がかかってくるはずだと……。早く球場に戻ってシャンパンかけをするために、その電話を心待ちにしていたんです。
ところが、試合は6対5で逆転負け。
で、僕に優勝を決める試合の先発がまわってきたわけです。
残り試合2で「マジック1」という状況での、このパドレス戦は、勝てたことはもちろん、僕自身にとっても納得のいくピッチングができた試合でした。
特に嬉しかったのは7回、1対1の場面で飛びだしたモンデシーのホームラン。
彼は前日の試合をケガで退場しているのに、まさに援護射撃という感じがして、どれだけ勇気づけられたことか。そのホームランを呼んだウォラックのライトへのエンタイトル・ツーベース。足の負傷をおして出場を続けるベテランに対しても同じ思いでした。
さらに8回、ピアザの2ランホームランによる追い打ち。その裏、パドレスの攻撃が1点に終わった時点で〝これで優勝できる〞と確信しました。
そしてウォーレルにマウンドを託した後、僕は急いでアンダーシャツを着替え、アイシングもせずにベンチに戻りました。身も心もワクワクして、何だか都市対抗の代表が決まった試合のことを思い出していました。〝ああ、あの時もこんな雰囲気だったな〞と。
僕がイメージする理想の優勝シーン。
優勝が決まる世紀の一戦の舞台は、大きくて美しいスタジアム。スタンドにはびっしりと詰めかけた観客たち。ボルテージが上がりっぱなしの舞台で、ひとりひとりのチームメートたちが、ひとつずつ見せ場を作りながら最終回へ。
そして、観客の盛り上がりが頂点に達した時、劇的なサヨナラ勝ちで勝負が決まる。近鉄時代から、ずっと僕は、このラストシーンに憧れ続けてきました。
優勝─。僕は結局、プロでのその感激を日本で味わうことはできませんでした。
社会人の時に都市対抗の大阪地区予選で優勝を経験。その時は、会社の寮の広間みたいなところで、限られた本数のビールを仲間と空けたのですが、それでも感激はありました。
そして〝こんな、こぢんまりとしたビールかけでも感動できるんだから、プロの優勝はきっともっといいものなんだろうな〞と……。
そう思ってプロ入りしたのですが、優勝はいつも西武にさらわれていました。
野茂にとって初の“プロ”での優勝
とにかく優勝したい。その思いがメジャー・リーグ1年目にして現実のものとなったのです。舞台はホームのドジャー・スタジアムではありませんでした。劇的なサヨナラ勝ちでもなかった。でも、体感できた優勝は、イメージしていた理想のシーンよりも、はるかに感動的でした。
シーズン後半、9月に入ってからベンチのムードは特によかったんです。
チームリーダーとして一番よく声をかけていたのは、やはりピアザとキャロス。
「もうオレたちは以前のオレたちとは違うんだ。やれる、絶対に勝てる、絶対に勝とう」
4年前のルーキー・シーズンで最下位という屈辱を経験しているキャロスが叫べば、ピアザが応えます。
「プレーオフには一生、出場できない選手もいるんだ。だから、その栄誉をなんとしても、このチャンスに勝ち取ろう」
チームにベテラン選手がいたことも心強かった。僕が初ヒットを打った時に、大好きな寿司を奢ってくれたウォラックがいる。
彼らは自分たちが前面に出るのではなく、若きチームリーダーたちを頼もしそうに見つめながら、経験の浅い選手をさりげなくサポートしてくれるんです。
若手だって負けてはいません。
シーズン中に納得のいくプレーができないとロッカーを叩き壊して暴れたモンデシーが、優勝決定の試合で勝ち越しのホームランを打ちました。僕にスペイン語と英語の混じった言葉で話しかけてくるバルデスも、持ち前の明るさでムードメーカーになっている。フォンビルもレギュラーを手中にして燃えている。
これほどベテラン、中堅、若手が一体となっているチームだったからこそ優勝できたのだと思います。昨年のドジャースは僕にとって『メジャーリーグ』のインディアンス以上に個性にあふれながら、まとまった素晴らしいチームでした。
また、僕を陰で支えてくれたゼネラル・マネージャーのフレッド・クレアーやトム・ラソーダ監督が喜ぶ顔も見ることができた。僕がドジャースに入団するきっかけとなったピーター・オマリー会長の笑顔にも触れることができた。
近鉄時代には、したくてもできなかったので、優勝できたことの喜びは、言葉では表せないほど大きなものでした。
僕が入団する前年、つまり89年の近鉄のV旅行はさんざんだったそうです。1年間苦労して優勝して、現地に行ってみたらホテルが予約されてなかったとか、オプショナル・ツアーとか言って無理矢理バスに乗せられ、観光をさせられたとか、小遣いは1日100ドルという制限つきだったとか。
僕は直接は知りませんが、選手の中には「優勝のプレゼントがこれじゃあ……」と言って嘆いている人もいたそうです。
寂しい話ですよね。偉い人から裏方の人まで含めて、みんなで盛り上がれるのが優勝のいいところなのに……。
ひとりの力ではなく、みんなで勝ち取るのが優勝ですから、球団も選手も同じ気持ちで喜び合うものなのです。だからこそ地区優勝をチームのみんなで喜び合えたことは僕の誇りです。
メジャーで投げられただけでも満足なのに優勝(ナ・リーグ西地区)まで味わえて、ホントにアメリカに来てよかったと思いました。球場を出た後も、体じゅうに喜びが残っていました。
初めてのシャンパン・ファイトの印象ですか?ウ~ン、ホントは仲間たちと、じっくり喜びを分かち合いたかった。シャンパンかけが始まって5分もするとマスコミが入ってきたので邪魔になったというか……。
鳴り止まないNOMOコール
ペナントレースも押し迫ってきたあたりから、優勝の夢を語る野茂の言葉には自然と熱がこもっていった。
「みなさん勘違いしてるんですよ。僕がこれほど優勝に憧れているのは、今まで優勝したことがないからではなくて、社会人時代に小さな優勝を経験しているからなんです。だからこそプロで、もっと大きな優勝を手に入れたい。仲間たちと心から喜びを分かち合いたいと思うんです」─
野茂は新日鉄堺での3年目に大阪の都市対抗第1代表となっている。
近鉄時代は、投手タイトルをほしいままにしていた野茂だが、個人表彰の喜びとチームメート全員で味わう喜びでは、感激の度合いも全然違ったということなのだろう。
逆に言えば、ドジャースにはともに喜び合える仲間がいるからこそ、これほどまでに優勝に固執していたのだ。
優勝決定直後に、こんなシーンがあった。
最後のアウトとなるセカンドフライをキャッチしたデシールズ(現セントルイス・カージナルス)が、ウィニングボールを野茂に手渡したのだ。そして彼は言った。
「誰に渡そうかと思ったけど、ふさわしいのは、やっぱり野茂だね。それは今日の試合に限ったことではなくて、今シーズンの彼の功績を考えても受け取るのは彼であるべきさ」
シャンパン片手に大はしゃぎする野茂の姿は、無邪気な野球少年そのものだった。それは単身、海を渡り、一騎当千のメジャー・リーガー相手に命懸けの闘いを演じてきた男に、神が与えた、ささやかなる報酬のようにも見えた。
そしてシャンパン・ファイトが終わってからも、仲間からの「NOMO!NOMO!」のシュプレヒコールが止むことはなかった。(解説・二宮清純)
モノクロ写真/書籍 『ドジャー・ブルーの風』より
写真/shutterstock
ドジャー・ブルーの風
野茂英雄