
ハンバートハンバートの「ぼくのお日さま」は、吃音のある「ぼく」の気持ちが綴られた楽曲だ。この柔らかで切ない曲が、第77回カンヌ国際映画祭で「ある視点」部門に選ばれた映画『ぼくのお日さま』の原点にある。
コロナ禍の不安のなか、流れてきたある曲
「子どもの頃って感情の振り幅があって、つらいこともあったけれど楽しかったと思います。あの頃の感覚を映像として残すことができれば」
奥山監督は、子どもたちの感情の機微にスポットライトをあてた本作の作品背景をそう語る。物語の主人公のタクヤは、男女二人組デュオのハンバートハンバートによる楽曲「ぼくのお日さま」の「ぼく」にインスピレーションを受け、形作られた。
「コロナ禍で仕事が全部動かなくなり、家に1人でいるときにSpotifyのレコメンドでの楽曲が流れてきたんです。この楽曲は昔から知ってはいたものの、当時のあてもない不安な気持ちに寄り添ってくれるようでした」
その瞬間、停滞していた脚本作業に光が射したように思ったという。ただ「生半可な気持ちで吃音を映画の題材として扱うべきでなない」ことは監督自身が一番理解していた。描き方を少しでも誤ると偏見を助長し、当事者を傷つける作品になりかねない。
脚本や芝居については日本吃音臨床研究会の原由紀氏に意見を求め、同研究会主催の「吃音親子サマーキャンプ」にも参加した。
吃音を持つ親子とともに過ごすなかで耳に残ったのは、ある少女の「吃音について理解してほしいんじゃなくて、放っておいてほしいんだよね」という素直な本音だ。その傍らでは、吃音をもつ親子がお互いに言葉を詰まらせながらも、ごく自然に会話している姿があったという。
家族で食卓を囲むシーンでは、タクヤと父親はお互いに言葉につまりながらも、言葉をかわす。母親も兄もそのやり取りに対して、気に留める様子はない。
なにもしないからこそ見えてくる優しさがそこにはある。
記号的でもなく、劇的でもない同性カップル
池松壮亮が演じるフィギュアスケートのコーチ・荒川には五十嵐という同性パートナーがいる。
「多様性の描写を取り入れたかったわけではなく、自分が観たい映画を考えていくと自然とこのような設定になりました。それでも吃音と同じく、取材を重ねて作り上げていきました」
奥山監督が「自分が観たい映画」とはなんなのだろうか。
「1人の観客として思うのは、映画やドラマに登場する同性カップルは、同性愛をメインテーマに据えた特別な物語の中で、芸術などの才能に優れていたり、筋肉質な体つきだったりと、いわば記号的側面が強調されているように思えました。僕は、そうではない映画を観たかった」
「僕の友だちの1人は同性愛者であることを公言していますが、『好きになった人がたまたま同性だっただけ』といっていたことがあります。今回の映画では、その温度感で描きました。パンフレットには五十嵐の自己紹介文で『好きになったのが荒川だった』と書きました」
劇中で荒川と五十嵐は同棲生活を送っているものの、過剰にお互いを求めることはない。ともにテーブルを囲み食事をし、アイスクリームを一緒に食べて笑い合う。「吃音」に「同性パートナー」。社会で特別視されがちな存在を淡々と描く。
そんな荒川に、フィギュアスケートの教え子であるさくらは、ほのかな恋心を抱いている。
「中学生ぐらいのときは、大人に憧れるような気持ちもあると思いますし、池松さんがコーチ(荒川)として、存在してくれるからその説得力を出せます。一方で、荒川がタクヤに好意があるように見えることは絶対に避けたいことでした」
「この作品はフランス国立映画映像センターから助成金をもらって制作していることもあり、脚本段階から海外の人たちの感想をいただく機会が何度もありました。
そのなかで、『荒川がタクヤに向ける感情が恋に見えてしまったら、大きなミスリードを産むのではないか?』といった意見もありました。それでも、池松さんのお芝居の力にかなり助けていただき、出来上がった映像を見る限り、ミスリードは生まないものになったと思っています」
恋愛対象ではないことを言葉で伝えることもできるが、用意した台詞ではどうしても陳腐に見えてしまう。荒川の恋人・五十嵐の存在は重要だった。
「余白があると自分の想像力で埋めていけるので“これは自分の映画だ”と思える瞬間があると思っています。登場人物のセリフで説明しないようにすること。これは難しくもあり、譲れない点でした」
スマートフォンもSNSもなかった「あの頃」
『ぼくのお日さま』は「現在より少し前」の時代設定だという。奥山監督が幼少期を過ごした2001年頃をベースに世界観を作り上げたため、スマートフォンやSNSなどは一切登場しない。
「普遍的な“ちょっと昔”を描きたかった。
「当時、自分はフィギュアスケートを習っていたのですが、競技人口が今と比べてかなり少なく、友だちにフィギュアをやっていることをどこか知られたくないと思っていました。『男なのに』といわれるのが嫌というか」
羽生結弦選手が活躍する前夜、スケートリンクに立つ少年は、少女に比べるとごくわずかだった。劇中でもフィギュアスケートの練習に奮闘するタクヤに対して、「女子がやる競技」と言葉に表すシーンもある。ノスタルジーは甘美な思い出だけでは成立しない。
「あと少しでうまくいくときに瓦解すること」が多い現実の中で
荒川の指導のもと、少しずつ息があっていくタクヤとさくら。練習を重ねて3人は絆を深めていくが、雪が溶けはじめる頃、ぱたりと途絶える。さくらは荒川にひとこと残して消えてしまうのだ。
「このシーンは、台詞も撮り方もものすごく悩んで、時間をかけました。何回もテイクを重ねて、台詞を削ったり池松さんからアドバイスをいただいたり……。
さくらの感情が自分の意図しない形で、言葉として出てしまう感じと、子どもが持っている純粋さゆえの残酷さを描くことに挑戦してみたいと思っていました」
SNSでは「大団円を迎える3人の姿を見たかった」という声もある。奥山監督はなぜ、痛みを残す選択をしたのだろうか。
「“あと少しでとても幸せになれる”という状況で、ふいに瓦解することって、人生でよくあると思うんです。幸福な状態が見えていたからこそ、痛みも大きくて、その瞬間、人生のどん底にいるような感覚になってしまう」
「僕自身がそういった痛みを、映画を通して体験してきたことで、免疫ができて、現実の世界でつらいときにも乗り越えられてきました。自分が映画を作るときは、そういった痛みを描きたいと思っています。痛みを描いているからこそ、観る人が抱える痛みに寄り添えることもあると信じています」
現実は上手く行かないことの方が多い。差別も偏見もなくなることはないのかもしれない。ただ、厳しい現実に対して想像力があれば、傷が少しやわらぐ。
痛みからは、立ち直らなくてもいい、乗り越えなくてもいい。 映画『ぼくのお日さま』は、光の中に包みこまれたような映像の中で、そう語りかける。
取材・文/嘉島唯 撮影/石垣星児
〈作品詳細〉
『ぼくのお日さま』
吃音のあるアイスホッケー少年・タクヤ(越山敬達)は、「月の光」に合わせフィギュアスケートを練習する少女・さくら(中西希亜良)の姿に、心を奪われてしまう。
ある日、さくらのコーチ荒川(池松壮亮)は、ホッケー靴のままフィギュアのステップを真似て何度も転ぶタクヤを見つける。
タクヤの恋の応援をしたくなった荒川は、スケート靴を貸してあげ、タクヤの練習をつきあうことに。しばらくして荒川の提案から、
タクヤとさくらはペアを組みアイスダンスの練習をはじめることになり……。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――監督・撮影・脚本・編集:奥山大史
出演:越山敬達、中西希亜良、池松壮亮、若葉竜也、山田真歩、潤浩ほか
主題歌:ハンバート ハンバート
本編:90分
配給:東京テアトル
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