
人間の胃の中で何が起きているか。普段、なかなか見ることはできない。
著書『100年食べられる胃』より一部抜粋、再構成して胃の健康を守るための知見をお届けする。
胃には「顔つき」がある
私はこれまで3000件以上の、胃を肉眼でじっくりと観察する機会をいただいてきました。近頃はAI機能を搭載したカメラが、胃の異常を察知して教えてくれる技術も進んでいますが、がんになりそうな気配を感じ取る眼力なら、まだまだ負けないような気がします。
以前も、こんなことがありました。
会食の場で、ある企業の経営者から、胃カメラの画像を見てくれと頼まれました。会社の定期健診で撮ったものとのことでしたが、一目見て「胃がんができそうな胃」に見えたので、そう伝えました。
先方はとても驚いて「先生、そんなこと言わないで、僕はどうしたらいいんですか」とおっしゃいます。私は病院に来ていただいて、まずは胃がんの原因になるピロリ菌を除去し、以降半年に一度、検診に通ってもらうことにしました。診察室で改めて画像を見てもやはり、がんがいつ出てきてもおかしくない「胃の顔つき」をしていたからです。
すると案の定、それから3年後の検診で、胃がんが見つかりました。それも、放置するとスキルス胃がんになる可能性のあるタチが悪いがんで、かなりの早期に発見できたのはとても幸運だったと思います。
スキルス胃がんは、通常の検診では見つけにくい上に進行が速く、自覚症状が出た段階で検査をしても、すでに進行している場合は治療が難しいがんです。
胃がんの原因の多くは「ピロリ菌」であることは間違いない
ただちに、胃の3分の2を切除することになりましたが、食欲を司るホルモン「グレリン」が分泌される部位を残す方法で手術を行いました。50歳を過ぎておられましたが、術後は順調に回復され、今でも大変お元気で、トライアスロンまでしているそうです。
この場合は、いくつものラッキーが重なったわけですが、私がひと目見て感じた「胃がんができそうな胃」とは、どんな胃なのか。
それは「肌荒れしている胃」です。
胃がんを発症する最大の原因はピロリ菌です。ピロリ菌に感染すると、胃の粘膜が肌荒れを起こします。まるで荒れた畑のようです。
胃の「荒れ」とは、炎症で、それが慢性胃炎となり、さらに胃粘膜の萎縮や腸上皮化生(ちょうじょうひかせい)という状態が引き起こされています。胃粘膜が腸の粘膜と似た状態に変化することからこう呼ばれていますが、そんな「荒れた胃」は、がんが「出やすい」状態。胃がん発生の前段階とされています。
その方の胃カメラの画像を見た瞬間、その「荒れた畑」の顔つき、ピロリ菌に感染した顔つきに私には見えたのです。
日本では毎年、5万人近い人が胃がんで生命を落としてきました。2019年の罹患数は約12万4000人、死亡数は約4万2000人で、患者数、死亡数ともに上位でありつづけています。
ただし他のがんと違って、胃がんは主な原因が「ピロリ菌」であることがはっきりしています。
ピロリ菌感染者は保険で除菌治療が受けられる
ピロリ菌が発見されたのは1984年、いまから40年前にさかのぼります。
それまでは、強力な殺菌作用を持つ胃酸によってガードされているため、胃の中ではどんな細菌も生息できないと考えられていたのです。そんな常識をくつがえしたのがオーストラリアの医学者、ロビン・ウォレン氏とバリー・マーシャル氏です。
彼らは、胃炎状態の胃の中に生息するピロリ菌を発見し、ピロリ菌の培養にも成功しました。しかし、ピロリ菌が胃炎の原因になるという仮説をなかなか信じてもらえなかったことから、マーシャル氏自らピロリ菌を飲み、胃炎が起きることを証明するという驚きの実験を敢行したのでした。
結果、10日目に急性胃炎を発症したマーシャル氏は、腹痛に苦しみながらも実証に成功。二人は2005年にノーベル医学生理学賞を受賞しました。
日本において、胃がん対策としてピロリ菌除菌治療が保険で受けられるようになったのは2000年代に入ってからです。
まずは2000年に、胃潰瘍・十二指腸潰瘍がある場合に対して保険適用に。その後2010年には早期の胃がんの内視鏡治療後のピロリ菌除菌、さらに2013年には、ピロリ菌感染による胃炎に対して保険で除菌治療ができるようになり、ピロリ菌感染者は今や誰でも、保険で除菌治療が受けられるようになりました。
かつてピロリ菌は、10歳以下の子供のときに家族間の唾液や井戸水など汚染の可能性のある水を飲むことから感染していました。
現在は衛生環境が整備されて若い方の感染率は低下していますが、中高年では未だ6~7割の方が感染していると言われています。
ピロリ菌感染で一度荒れた胃は元に戻らない
また、ペットを介してのピロリ菌感染も注意したいものです。
ペットの犬や猫に口をなめられることでも、ピロリ菌を有しているペットから感染してしまうこともあります。ペットとのキス写真をSNSにあげている人を時折見かけますが、気をつけたほうがいいでしょう。
胃がんは中高年の病気と思っている人は多いと思いますが、医療の現場では、若い人でもまれではないことがわかっています。その理由には、この意外なところでのピロリ菌感染があるのではないかと思います。
公的な胃がん検診は40歳からですが、若い人も胃がんの可能性はありますので、まずはピロリ菌の有無だけでも確認しておくと安心です。感染していた場合は除去し、その後は定期的に胃カメラ(上部内視鏡検査)を受けてほしいと思います。
胃がんの原因となるピロリ菌。このピロリ菌の発見によって、胃についての考え方は大きく変わりました。
特に昔は、胃が荒れていれば即「加齢ですね」と言われていたものです。ところが、それはピロリ菌のせいであって、加齢のせいではなかったのです。
実際、私が内視鏡で診ている印象でも、ピロリ菌の感染がない胃は、80歳過ぎの高齢の方でも比較的きれいです。一方で、30代であっても、ピロリ菌に感染している胃は荒れています。
ピロリ菌に感染するのは多くの場合若いときですが、ピロリ菌の感染によって一度荒れてしまった胃は、元には戻りません。
そういう意味では、ピロリ菌を除去すれば胃がんを防げると思うのは間違いです。しかし、ピロリ菌の除菌後に、またピロリ菌に感染することは、非常に少ないことがわかっていますから、善は急げです。少しでもはやく対処してほしいと思います。
何より大切なのは、極力早く、ピロリ菌に胃を荒らされないうちに感染を見つけ、除去すること。そして、一度ピロリ菌に感染して荒れてしまった胃は、年に一度の検査を怠らないことが重要です。
文/比企直樹 写真/shutterstock
100年食べられる胃
比企 直樹
「生きる」ことは「食べる」ことです。
「生きる力」を高める、一生しっかり食べるための「胃」の話を、
胃がんトップ外科医が教えてくれました。
みなさんは、ご自分の「胃」のことをどのくらいご存じですか?
普段は暴飲暴食で無頓着、年に1回の健康診断で、ときどき思い出す……
くらいでしょうか?
胃には、食物を消化し、全身に栄養成分を送る役目だけでなく、
「食欲」そのものも司ることが、近年あきらかになりました。
消化の第1ステップにして、「食欲」を司る、
人体一の多機能臓器といえる「胃」。
その「胃」の外科手術で国内トップの腕を誇ると言われる比企直樹医師は、
手術において、胃の「ある部分」を残すことが、
手術後の健康と食欲を守ることを明らかにし、
その新しい手術方法を開発した医師。
3000をゆうに超える胃を見て、触れて、
誰よりも胃の真価とケアの大切さを知る医師が、
人生100年時代を健やかに生きるための、
胃とのつきあい方を教えてくれました。
胃そのもののことはもちろん、
病気のときの食べ方や、「筋力」を保つ方法もお伝えしています。
一生「食べられる」を守って元気に生きる秘訣がつまった本書。
ご自身はもちろん、ご家族の健やかな毎日のために、お役に立つこと請け合いです。
【目次より】
◎胃には「顔つき」がある
◎鍵は「胃の上部」にあり。生命力の源ホルモン「グレリン」を守れ
◎「糖質過多の食事」が逆流性食道炎の原因に!?
◎「内臓脂肪」が増えると逆流性食道炎になる理由
◎からだのあらゆる炎症は「胃が止まる」につながる
◎九死に一生を得る人は「栄養状態のいい人」だけ
◎誤嚥性肺炎につながる「口の衰え」を予防せよ
◎「心配なポリープ」「心配ないポリープ」どう見たらいい?
◎胃がんの原因の多くは「ピロリ菌」であることは間違いない
◎胃を全摘しないほうがよいこれだけの理由