
日本の学歴社会がもたらすものとはなんなのか。なぜ学歴社会はなくならないのか。
『学歴社会は誰のため』より一部抜粋・再構成してお届けする。
学歴とは何か? 学歴社会とは何か?
ガクレキ。それはこう定義されます。
「その人が受けた学校教育の経歴。どの学校でどのような課程を修了したかを指し示すもの。とくに、どの程度の学校を卒業したかによって、教育を受けた範囲や内容を表現する際に用いられます」(『広辞苑』第七版〈岩波書店〉)
……でしょうね、というか、「学校教育の経歴」という表現そのものにはなんの変哲もありません。強いて言えば、「どの学校で」「どの程度の学校」とあることから、学歴=学校歴が含まれていることは特筆すべき点でしょう。本書でも「学歴」を「学校歴」を含む形で用います。ただこれだけでは、「はじめに」でさらったようなアンビバレントな気持ちには程遠く感じます。
そこで「主義」という言葉をくっつけて「学歴主義」とするとどうでしょう。ちなみに「主義」とは平たく言うと、その社会が「基準」とする考え方や価値観、社会システムを指します。
ガクレキシュギとは。
「学歴が人びとの職業的成功、社会的地位を決定する中心的な役割を果たす社会を指す」(『社会学辞典』〈有斐閣〉)
「社会において、学歴が人の価値を評価する重要な基準となっている状態」(『広辞苑』第七版〈岩波書店〉)
あぁなるほど、学校教育のたんなる経歴の話が「人の価値」の基準になると……。これは聞き捨てなりません。まずもってこう思います。いったい全体、「人の価値」ってなんでしょうか。それを値踏みする力を学歴にもたせた学歴主義って、なんでしょうか。がぜん気になりますが、この主義に社会が合意した状態が「学歴社会」です。
1960年代にはすでに新聞においても「人間の値打ちが、人格とか能力・技術など、その人間の内側にあるものとは直接には無関係な、学歴という一種の肩書で決定される“学歴社会” (『朝日新聞』1964年5月31日)」と記述されています。
人の価値を「評価」する?
天は人の上に人を造らず、天は人の下に人を造らず─福澤諭吉の言葉であることはあまりに有名ですが、要するに人は皆平等なのだと、幼いときに私も教わりました。「人の価値」に貴賤はないという意味だと、一般的には捉えられています(福澤の真意とは異なるのですが)。
でも誰もが知る学歴主義・学歴社会という言葉を紐解こうとしたら、これまた誰もがしばしば耳にする「人の価値を評価する」という話にぶち当たりました。一人ひとりの命に貴賤はないはずですが、あたかも上等なものとそうでないものがありそうなニュアンスの漂う「価値の評価」という言葉。これが意味するものを解きほぐしたいわけですが、私はここで、その是非に焦点化するのではなく、
そもそもなんで「人の価値」を「評価」しなきゃいけないんでしたっけ?
という点から掘り下げてみようと思います。
誰かが誰かの「価値」を「評価」しないと、なぜいけないんでしょうか。拙著を何冊かお読みの方には恐縮ですが、人が人の「価値」を序列づける根本的な背景を考える際には、能力主義の理解を避けては通れません。よって重複した議論になることをご容赦願いつつ、能力主義の基本概念を紐解いておきましょう。
非常に明快な話です。お金も土地も食料も……有限です。だから分け合って生きなければいけません。となると問題は、それをいかにして分けるか(配分)になりますが、かつての身分制度の時代は、名家出身者などの権力者には多くをあげましょう、とかいうことがまかり通っていたわけですね。配分といっても力の大きさ(既得権益)に隷属する形です。
しかし社会の進歩とともに、「本人がどうすることもできない、つまり『生まれ』で持てる者と持たざる者が決まってしまうのは不平等ではないか?」との疑問が湧いてきます。じつに民主的な響きです。
そして近代化に伴い、廃藩置県、四民平等が公布され、身分制度は廃止されました。と同時に、代々就いている職業も違えば、当然所有している財産にも差があるなかで、どうすればできるだけ不満の出ないように、納得感を担保しながら、平等に配分できるか。
「能力」が高い人こそが、「価値」が高い人
こうして誕生したのが、努力を含む「出来」(=能力)によって、分け合い、つまりもらいの多寡を決めましょう、とする能力主義でした。
頑張れて、人よりできることが多い人、つまり「能力」が高い人こそが、「価値」が高い人である、と。そしてこの、「価値」が高い人が多くをもらうべきである─とするロジックは、現代社会でおよそその理屈を疑われることなく21世紀を迎え、いまだに私たちの社会システムの中心的な運用基準(=主義)となっています。
個人の「出来・不出来」を把握し、他者と比較したうえで、序列/優劣をつけることで、取り分に傾斜をつけることを合理化するのです。繰り返しますが、すべては限りある資源のため。本当は大盤振る舞いしたいところですが、支援やケアする対象は能力によってやむなく「絞られる」わけです。
と同時に、近代化以降、「もらい」とは、多くの日本人にとって、仕事をすることで得る対価(給与などの報酬)を指します。自分で商売をする人もいれば、企業に雇用されながら、給与所得の形で「もらう」ことがごく当たり前になりました。
その配分される給与をもとに、買い物に行って食品を得るし、お金を出して不動産会社から土地や建物を購入したり、借りたりする。いまの私たちにとってごく当たり前の社会システム、インフラとも言えます。
ちなみに先ほど、「およそその理屈を疑われることなく」と述べましたが、正確には一部に疑ってくれる学問も存在しています。
それは私も修めてきた教育社会学です。それでも一般的に言えば、この「できる人」「価値の高い人」が多くをもらえば文句ないでしょう? という能力主義のロジックよりも人びとの納得感を誘う論理は、いまだ見出されていません。
今日も会社では、「誰が『できる人』なのか?」で評価がなされ、給与やボーナスといったもらいの多寡、言い換えれば個人の「稼ぎ」(配分)が決定されていますから。
文/勅使川原真衣 写真/shutterstock
『学歴社会は誰のため』(PHP研究所)
勅使川原真衣
長年の学歴論争に一石を投じる!
学歴不要論など侃侃諤諤の議論がなされるのに、なぜ学歴社会はなくならないのか。誰のために存在するのか。
背景にあるのは、「頑張れる人」を求める企業と、その要望に応えようとする学校の“共犯関係”だった⁉
人の「能力」を測ることに悩む人事担当者、学歴がすべてではないとわかっていてもつい学歴を気にしてしまうあなたへ。
教育社会学を修め、企業の論理も熟知する組織開発の専門家が、学歴社会の謎に迫る。
【本書の要点】
●学歴は努力の度合いを測るものとして機能してきた
●ひろゆき氏の学歴論は本質を捉えている⁉
●日本の学歴主義の背景にあるメンバーシップ型雇用
●仕事は個人の「能力」ではなくチームで回っている
●「シン・学歴社会」への第一歩は職務要件の明確化
【目次】
第1章:何のための学歴か?
第2章:「学歴あるある」の現在地
第3章:学歴論争の暗黙の前提
第4章:学歴論争の突破口
第5章:これからの「学歴論」──競争から共創へ