
近年、日本では3組に1組が離婚するといわれているが、厚生労働省の最新の統計「令和5年人口動態統計(確定数)」によれば、2023年の全国における離婚件数は約18万5000件にも及ぶ。しかし、戦前の日本でも離婚が少なかったというわけではない。
『戦前の日本人 100年前の意外に豊かな国民生活、給料、娯楽、恋愛』より一部抜粋・再構成してお届けする。
実はそれほど早婚ではなかった
戦前は早婚だった、と思われがちだが意外とそうではない。
「昔は、13歳、14歳で嫁に行くのも珍しくなかった」
というような話は、明治も初期のころまでのことであり、明治31(1898)年に施行された民法では、15歳未満の女子の結婚を禁じている(男子は17歳未満)。
「戦前の女性は、十代で結婚するのが普通だった」
というのも、誤解である。
明治初期は確かに早婚が多かったが、その後、晩婚化が進み、昭和15(1940)年ごろには、男性28歳、女性24歳というのが、平均初婚年齢だった。
また四民平等の世の中となり、華族、士族が平民と結婚することも可能になった。ただし華族の場合は、国に請願をし、許可を得なければならなかったので、事実上はだれとでも自由に結婚できるというものではなかった。明治15年には、万里小路秀麿がロシア留学中に知り合ったロシア陸軍大佐の妹マリヤ・バユノフとの婚姻願を提出したが、受け入れられず、破談になってしまった。
女性が結婚相手に求めた条件
結婚の方法は明確な統計がないが、見合い結婚がほとんどだった。
恋愛結婚もあるにはあったが、先に述べたように、結婚するには戸主の承認が必要だったので、勝手な結婚は事実上許されなかったのだ。農家の場合は、見合いさえ行われずに、親同士の話し合いで決まることもしばしばあった。
ただし戦前の若い女性たちが、親の言いなりになって結婚していたかというと、どうやらそうでもないらしい。
たとえば、戦前の女性雑誌『婦人の友』の昭和8(1933)年1月号にはこんな記事がある。
婦人の結婚難を解決する方法~迷うのがいけない~
結婚難は、年と共に深刻化して行くようですが、これは日本ばかりでなく、世界共通の悩みだと言われています。
これにはいろいろの原因もありましょうが、配偶者選択の範囲が著しく広くなって来たことも一つの原因であります。
昔は、同じ村の人とか、親類知人の範囲内で配偶者を選んだのですが、今日では交通や通信の便が開け、新聞雑誌で世間を見る眼も開けて来ましたので、そんな狭い範囲の選択だけでは満足できなくなりました。つまり、言えば理想が高くなったのです。~中略~
この頃のお嬢様方に、結婚の理想を訊ねてみますと、何よりもまず生活の安定が第一の条件になっています。たとえば、月収百円以下では困るとか、多少の財産がなくてはいけないとか、贅沢をしたいとは思わないが、たまには芝居を観たり温泉に行ったりするくらいの余裕が欲しいとか、そんなことがかなり重要な条件に挙げられております。
この記事では、この後、著名な医師や教育者などが登場し、「女学校を出たら職業婦人になれ」「結婚条件の基準を下げよ」「格式ある家の女中になって花嫁修業せよ」などの意見が述べられている。
『婦人の友』というのは、戦前、100万部近くの発行部数を誇り、もっともよく読まれた女性雑誌である。特別、裕福な層が読んでいたわけではないので、この記事はごく一般的な女性を対象にしたものだろう。
つまり、戦前の若い女性も、結婚相手に求める条件が年々上がっていっていたわけである。それが晩婚化した要因でもあるのだ。
意外に多かった離婚
意外にも戦前は、離婚がけっこう多かった。
明治中ごろまで、日本の離婚率は異常に高いのだ。
明治16(1883)年の離婚率(人口千人あたりの離婚数)は、3・39パーセントなのである。離婚が急増したといわれる平成14(2002)年でも2・30パーセントなので、その数値の高さがわかるだろう。
明治30(1897)年でも離婚率は、2・87パーセントと高い。しかし明治31(1898)年以降は急激に下降を続け、昭和10(1935)年には0・70パーセントとなった。なぜ明治時代前半は、離婚率が高く、その後は急降下したのか?
これには明治31年に施行された民法に要因がある。
明治時代に限らず、江戸時代以前、日本では離婚が多かったとされる。日本では、結婚というのは「男と女が一緒になる」というより、「その家が嫁をもらう(もしくは婿をもらう)」という感覚に近かったからだ。
家に入る嫁や婿というのは、法的に守られることもなく、離婚に関する複雑な手続きも必要なかったことから、嫁や婿が気に入らなかったら簡単に追い出すことができたのだ。
特に姑が嫁を気に入らずに、追い出すというケースは非常に多かった。ひどい姑だと、何度も嫁を取り換えることもあった。この風習が明治になってからも続いたため、明治時代の前半は離婚が非常に多かったといえる。
親の許可ありきの結婚と離婚
しかし、明治31年に施行された民法では、「25歳未満の者が離婚するときは、『結婚を承諾した者』の許可が必要」ということになった。『結婚を承諾した者』というのは、ほとんどの場合、親ということになる。
ここにきて、「嫁や婿が気に入らないときは追い出す」ということが簡単にはできなくなったのだ。ただこれで「気に入らない嫁や婿を追い出す」ということがなくなったのか、というとそうではない。
離婚をしないで済むように、結婚の届け出をしないようになったのだ。
つまり嫁や婿をもらうときに、一定期間は籍を入れないでおくのだ。そうすれば、複雑な手続きを取らずに、気に入らなければ嫁や婿を追い出すことができる。
これは、「試し婚」や「足入れ婚」と呼ばれ、戦前期を通じて行われていた風習である。大正9(1920)年の調査では、夫婦全体の17パーセントがまだ婚姻届を出していない「足入れ婚」状態だったという。
なので、戦前は実質的な離婚率はかなり高かったと推定される。
戦前から若い女性は結婚相手をえり好みしていたり、姑が気に入らない嫁を追い出していたという。
女性というのは、いつの時代も基本的には変わらないということだろうか。
文/武田知弘 写真/shutterstock
『戦前の日本人 100年前の意外に豊かな国民生活、給料、娯楽、恋愛』(宝島社)
武田知弘